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花です、とインターフォンに告げると、お帰りなさいませ、と低い声で返答があった。いつもいつの間にか背後にいる執事の声だ。扉が音も無く開く。会社には最先端の人物認証システムを入れているのに、自宅は執事がすべて取り仕切っている。そのあたりが孟徳の面白いところと思う。広い前庭を小走りで横切って玄関にたどり着く。絶妙なタイミングで扉を開けた執事に頭を下げた。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ、姫さま」
孟徳が厳命しているので、この邸で花は「姫」と呼ばれる。いい加減、この年齢では恥ずかしい。
「おじさまは?」
「さきほど、会社にお出かけになりました」
「お休みだって言ってたのに」
花が呆れると、執事は、よく見てやっと分かるくらいの笑みを浮かべた。
「あの、公瑾くんは」
「屋根裏でお待ちです」
その部屋のことは彼女もよく知っていた。執事に礼を言い、階段を駆け上がる。突き当たりの小さな扉を開け、花は立ち尽くした。
床一面に、真珠が散らばっているかに見えた。すぐに、それは天国の涙だと分かったけれど、花は動けなかった。
椅子に腰掛けた小さなシルエットは、花を見ても微動だにしない。目を見開いて、まるであり得ないものを見ているかのように凍り付いている。花は鞄を置いて彼に走り寄った。
「公瑾くん?」
小さな頬を両手で包み込む。もういちど強く呼ぶと、彼が、電池が切れる寸前のおもちゃのように瞬きした。
「ごめんね、遅くなって。先生の手伝いをしてたの。帰ってきたよ。花だよ」
公瑾の小さい唇がぱく、と動く。途端に彼の目の焦点が合った。彼は椅子を後ろに飛ばし花に抱きついた。花はあやうく後ろに倒れるところだったが、執事が支えてくれたのでどうにか持ちこたえた。
「ごめん、ごめんね。ちゃんと帰ってきたよ」
抱きつかれている首はちょっと苦しいし、彼を置いていった初日からこうでは不安になるけれど、花はとりあえず囁き続けた。
公瑾がしがみついて離れないので、花はとりあえず彼が座っていた椅子に腰を下ろした。天井にひとつだけついているレトロなかたちの電球は、形に相応しいぼんやりとした光を部屋の中に投げている。そのあかりの中、執事が、散らばった天国の涙を拾い集めていた。
「すみません」
謝った花に、彼は小さくかぶりを振った。大きな掌に小山をなしたそれを見て、花はまた、公瑾の髪を撫でた。花がいない、それだけで悲しみの引き金になってしまうなら、いったい何を教えればいいのだろう。
「いま、お詰めします」
「いいです。あの、それはここに置いておいてもらっていいですか?」
彼の悲しみの形を持っていたくはない。昨夜はなにひとつ零さずに眠っていたのだから。
執事は眼を細めた。
「これがどれほどの価値を持っているかご存じですか?」
「価値?」
涙に価値とは、どういう意味だろう。
長い指先でそれを数粒つまみ上げ、彼は花にそれを示した。
「これくらいで、花さまがいまお住まいのアパートを豪華に新築できるほどの価値はございます」
花はそれと執事を見比べ、それから公瑾のつむじを見た。嘘、と言いたかったがこの執事が冗談を言うはずもない。
「…なんだか、嫌です」
花は唇を噛んだ。
「悲しみに値段がつくなんて」
「それでもこれは、最上の環境ではぐくまれた人形のみが持ちうる涙です」
「でも! わたし、この子にそんなふうに泣いて欲しくないです」
花がかぼそく言うと、しがみついていた手がふっと緩み、公瑾が彼女をのぞき込んだ。花は小さい体を抱え直した。
「公瑾くん。今日はほんとうにごめんね。」
彼は、花の言葉、息のひとつさえ逃すまいとするような瞳でこちらを見ている。花は彼の手を握った。
「でもわたし、帰ってきたよ?」
ね、と笑いかけると、彼はしばらくじっと花を見ていたが、おずおずと笑った。それが、『ごめんなさい』と言っているようで、花は彼の小さな頭を撫でた。
「ありがとう。じゃ、帰ろうか」
人形がきょとん、とした。花はその額に口づけて、今度こそ立ち上がった。
「わたしたちのおうちだよ。ここと比べるとすごく狭いから、びっくりしないでね」
「姫さま。あるじが留守にお返ししては、わたしどもが叱られます」
「おじさまには連絡しますから。それと、また来ますって言っておいてください。」
すかさず言った執事に、花は頭を下げた。彼は目尻を和らげ、分かりました、と丁寧に頭を下げた。いつもひとこと言うけれど、花の言い分はたいてい通してくれる彼だった。
今夜も街の空気は少し湿っぽい。街灯が潤んだように見える。この湿っぽさこそ旅行者が驚き嘆くもとなのだが、花は慣れている。何年か前、孟徳に連れられて北の町に旅したことがあるが、頬を刺す乾燥した冷気には最後までなじめなかった。
孟徳の豪邸から地下鉄二駅分くらいを歩く。表通りは、コンビニや古いドラッグストアがぽつぽつと灯りを投げかけている。会社帰りの人たちや夜の塾通いの子どもたちが、公瑾に驚いたような視線を投げる。少年の美貌は、街灯にも映える。
点いたり消えたりを繰り返す古い自販機の角を曲がってすぐ、小さいが新しい二階建てのアパートがある。そのいちばん端の部屋が彼女が借りている部屋だった。
彼女に手を引かれてここまで歩いてきた公瑾は、花が扉を開けて部屋に入ると、こわごわとついてきた。誰か居るかのように花のスカートの後ろから部屋の中を見回す彼に、花は苦笑した。
「狭くてごめんね。」
人形にそんな感覚があるのかどうかは分からないが、花はとりあえずそう言った。それから、狭いたたきに立ち尽くしている人形をうながして座らせ、小さな足から靴を脱がせる。立たせると当然のように手を伸ばしてきた彼に苦笑してその手を握り返し、ソファベッドに導いて座らせた。六畳一間ではスペースもないので、結局、ベッドにいる時間がいちばん長いのだ。ここを畳んで出て行ったのは昨日の朝なのに、ずいぶん昔のようだ。
「公瑾くん」
ぴたりと花にくっついている彼の頭を撫でながら囁くと、彼が顔を上げる。
「ここが、わたしと公瑾くんの部屋だよ。明日はここから一緒に、おじさまの家に行こうね。」
公瑾は花をじっと見て、それから順繰りに、本棚や小さいキッチン、バスルームの扉を見ると最後に、背後に畳んである花の羽布団やタオルケットを見た。意外な敏捷さで小さい手を伸ばしタオルケットを抜き取ると、花が制止する間もなくそれにくるまって、にこ、と笑った。
「何してるの」
慌てて花が取ろうとすると、今度はそれをきつく握って頭から被ってしまう。絶対離さない、とでもいうようにきつく結んだ唇としばらく睨みあってから、花は肩を落とした。
「気に入ったなら、それでお休みしようか」
彼は、古いタオルケットひとつでずいぶん幸せそうだ。しばらくして花は仕方ない、と思った。あんなふうに泣かなくなるのなら、布団のひとつやふたつ、どうってことない。子ども用の布団を買ってこないといけないのかと考えていたが、そう言えば昨夜も一緒に寝る寝ないでもめたのだった。当然、一緒に寝るのだろう。ベッドが狭いけれど、床に布団を敷こうか。孟徳のところの客間のベッドのように広くないから、蹴り出したりしたら大変だ。
「あ、パジャマどうしよう…」
昨夜は孟徳のところで借りたが、この部屋には自分用のものしかない。
それともうひとつ問題がある。公瑾がいま着ている衣はお店に居た時のままだけど、まさか着たきりというわけにいかない。彼が眠っていたあの店なら、幼いながらひんやりと高貴な彼の雰囲気を引き立てる服がたちどころに揃うだろうが…花はがっくりと頭を垂れた。
「あのお店のは高そうだったしなあ…」
花は公瑾を見た。いま彼はタオルケットにくるまったまま花の膝によじ登ろうとしている。それがくすぐったくて掴まえると、彼は、きゃあ、というように手足をばたつかせて笑顔になった。
「公瑾くん」
花が呼びかけると、彼は頭からタオルケットをかぶった、ただのやんちゃな子どものように花を見上げてきた。花は彼の頬を両手ではさんだ。柔らかくてすべすべした彼の肌は、触っていると不思議に落ち着く。
「わたし、あのお店みたいにきらきらした服を公瑾くんに毎日着せてあげられないけど、将来はうんときれいな服を着せてあげられるように頑張るからね。」
だからそれまでずっと一緒に居てね、と続けるつもりだった。けれど、ふわふわ笑う彼は今日はじめて見ている気がして、もうそれでじゅうぶんと思った。
(続。)
(2012.4.17)
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