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子建はぼんやり外を見ている。
妓女が低い笑い声を零した。ずいぶん古い馴染みの彼女は、いつも風のように呟き、寄り添い、歌をうたう。
「近頃、そのような顔ばかり」
「ん? ああ…」
彼はすっかり崩れた髪をかき上げた。その手に彼女は手を添えた。いつもなら握り返すその繊手を、彼はただされるがままにしていた。彼女はすぐ手を解き、ゆったり微笑んだ。
「お加減がお悪いわけでもございませんでしょうに。」
「具合が悪いならここへは来ないよ」
子建は立ち上がって衣の襟をかき合わせた。滑らかな手が後ろから上衣を着付けていく。ふと、彼はその手を掴んだ。指輪が好きな彼女は、その滑らかな指に様々な指輪を付けている。透かし彫りが美しいものから、大きな紅い石が嵌ったもの、なんの飾りもなく緑の石を削りだしたもの。子建が贈ったものばかりだ。
彼女が、ふと笑った。
「お別れのようにご覧になりますこと」
子建は、その笑みをつくづくと見た。そうして微笑み返した。
昼間の裏道を、ゆったり歩く。日が高いのに酔いつぶれた男が転がる道だ。どこかから安酒と饐えた匂いがする。彼が本来在る場所ではまず嗅ぐことのないそれらを、彼の靴は頓着無く踏んでいく。
日が陰ったように思えて彼は立ち止まった。狭い路地にかぶさるように垂れ下がる屋根から誰かが見下ろしている。眼を細めて見た子建に、やせ細った男はに、と笑った。猿のように飛び降りた彼が短刀を取り出すのをじっと見守る。男がすっと距離を縮めてくる。動かない子建に間近になった彼が、大きく横に飛ばされた。
子建の前に立った芙蓉は、振り向いて彼を睨み付けた。
「どういうおつもりですの!?」
「剣は苦手です」
子建が微笑むと芙蓉は吐き捨てるように息をついて男に向き直った。しかしそのときにはもう男は居なくなっていた。芙蓉は構えを解いた。
「今日はずいぶん可憐な衣を選んでいらっしゃる」
芙蓉は肩をそびやかした。実際、いつもの戦姫としてのなりではなく、高位の貴族の姫の侍女のような、慎ましくも艶な姿である。芙蓉が上目遣いで子建をねめつける。
「まずそこでいらっしゃるのね」
「ああ、そうでした。助けていただいてありがとうございます」
芙蓉は疲れたようにため息をついた。あたりを見回す。
「供も護衛もつれていらっしゃらないのですか」
「わたしの護衛はみな、嫌がります」
「わたしだってしませんわよ」
「おや残念。あなたが付いて下されば出かけなくても済むものを」
「…何をお考えですの」
「あなたのような美しく勇ましい方と共にいれば、外に出なくても楽しい時間を過ごせるでしょうから」
芙蓉は非常にあからさまに、高い回廊の手すりの上を歩むような目つきをした。
「わたしの考え違いでしたら謝罪いたしますけれど。あなたはわたしにおんなの色を求めていらっしゃらないように思えます」
子建は笑み崩れた。
「率直なお尋ねだ。姫軍師の友はみな、小気味よい。…ええ、と申し上げても、あなたはお怒りにならぬでしょうね」
芙蓉が迷うように唇を動かした。その唇に指を添える。彼女が、げ、と言いたげに顔を歪めたので、子建は指を離した。さっきまでともに居た女の香りがついていたかもしれなかった。この女性は、そういうものにいかにも潔癖そうだ。
「わたしは己に無いものが大好きです。己に無いものだけが、わたしを動かし得る。現に姫軍師は世を変えてしまった。それにはあなたがたのような力もあったが、あなたのあるじだけでは足りなかったものを姫軍師は持っていた。」
問わず語りに語りながらふいに子建は息が詰まるように思った。胸が痛いような力で、だから自分は欲しいのだと言葉は撃った。彼は息を噛んで、それを押し込めるように微笑んだ。
兄よ、あなたは本当にあの子を欲しいのか? 父のようでいちばん父から遠いような兄、しかしいつの間にかその足下を揺るぎないものにしている兄よ。あなたは、わたしが興味を持っているからあの子を気にするのか?
「だからわたしは女の方も好きです。けれど、おんなという色が無くても興味深い方は居る。…お怒りになりましたか?」
芙蓉はきゅっと眉根を寄せたが、すぐに表情を緩めて小さくかぶりを振った。子建はくすくすと笑った。
「あなたも、わたしが姫軍師に興味を持つことを咎めますか」
「わたしは、あの子が望むことなら」
「姫軍師の望みがあなたを害することはないと信じていらっしゃる」
「ええ」
いくさに向かう女の顔で芙蓉が頷く。子建からすれば非常に稚拙な言い訳を掲げられる娘に、彼は公子の笑みを向けた。
「いかがでしょう、宮まで護衛していただけませんか。いまだけで結構です」
たいへんに不承不承の色を隠しもせず、芙蓉は頷いた。それに頷き返して歩き出す。小さい足音がきちんと付いてくる。
温かくなる日差しに、裏通りの匂いは強くなる。女の金切り声と男の怒鳴り声がひとしきり交錯して、また気だるい日差しに沈む。
「あなたはなぜこのようなところに、とお聞きしてよろしいものかどうか」
「だったら口に出さないでいただきたいわ。大したことはありません。お茶を買いに出ましたの。用事は済んでいますのでご心配なく」
「美味しい店ですか」
「宮でご用意されているものよりはずっと落ちると思いますけど、値段の割にはよいものを置いていますわ。」
「姫軍師もお好きでしょうか」
「あの子は、あなたやあなたの兄上がお贈りくださる茶を楽しみにしていますから、どうぞご心配なく」
ふふ、と子建は笑った。かわいらしい棘だと思った。彼は呟いた。
「姫軍師の手は、あなたと違いますね」
「あの子は剣術はからきしです」
「深窓の姫君でもない」
「姫君ではありませんもの」
「…ただ、ひとり」
子建は立ち止まった。芙蓉も立ち止まり、怪訝そうに彼の背を見上げた。だが慎ましく黙っている。彼はくるりと振り返った。
「茶を買い求めましょう。案内してください」
芙蓉の目尻がきっと上がった。だが、子建がさっさと歩き出したので、上がった肩はじりじりと力を込めて落ろされた。
(続。)
(2012.7.1)
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