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手すりにひじをつき、頬杖をついている子どものような後ろ姿に子桓は微笑した。この宮城でこれだけ無防備なのはこの娘くらいだ。すぐうしろと言えるような距離まで近づいても花は微動だにしない。
「花」
呼んだとたん、花の背がぴんと伸びた。立ちあがりながら振り返ったひょうしに目を回しでもしたのか、小さい体が大きくかしぐ。小さい悲鳴に子桓は慌てて手を伸ばし、支えた。花は、子桓の胸にすがりつき大きく息をついた。
「大丈夫か」
「ごめん」
花はまだ驚いた目のまま彼を見上げた。
「急に声を掛けて悪かった」
「ううん、いいの。ちょっとぼうっとしてた」
子どものように首を大きく横に振る花が可笑しい。
「どうしたんだ、こんなはずれの東屋で」
「子桓くんこそ、どうしたの? いつもいる棟からはずいぶん外れていると思うけど」
「俺は」
いいさして彼は笑みを浮かべた。
「さぼりだ」
花が急に心配そうな顔になる。
「どこか具合でもわるいの?」
「言ったろう、ただのさぼりだ」
あまりにきっぱり言ったせいか、かえって花はますます不安そうに顔を曇らせた。
「本当?」
「本当だ」
「仲達さんが困るよ?」
「あいつは探したりしない。自分の分まで俺あてに手配し直して俺の机に積んでおくだろう」
花はちょっと考えるように目をさまよわせたが、不安そうに子桓を仰ぎ見た。
「それって…すごい手間だよね?」
「そうだな。でもまあ、そういうやつだ」
ふうん、と頷いた花はそのまま視線を東屋の外に戻した。子桓は彼女の背後を見た。薄暗い向こうがわの回廊にはだれもいないように見える。過保護な蜀の者たちもここには付いてきていないようだ。すると確かに彼女は気まぐれでここまで来たのだ。
「何をしていた?」
花はぐるりと首をめぐらせた。
「雨なんだよね」
大発見のようなわくわくした調子に、内心で首をひねる。
「ああ、そうだな」
「夕方になってきたから、雨がよく見えるの。実は今日の昼間はね、師匠にお休みをもらったから芙蓉姫と城下に行ってたんだけど、ちょっと疲れたから帰ってきてお昼寝してたの。なんか聞こえるなあと思って起きたら、雨だったの。」
「伏龍の弟子が、ずいぶん余裕だな」
花が恥ずかしそうに、しかしちょっと膨れたような顔をした。
「子桓くんってば、そういうときだけ言わないで」
「そうか? お前は星を読まないのか。読んでいたら天候くらい分かるだろう」
「まだ苦手。」
相槌を打ちながら、そのほうが彼女に似合うと思った。どの理からも遠い娘に、この世の星は似合わない気がする。
「それで、雨を見て何を考えていた?」
花はゆっくりと首をかしげた。
「雨の音って、不思議だと思わない?」
不意を突かれる。てっきり、先日、師と弟子で顔を突き合わせて悩んでいた堤のことではないのか。そんなことを立ち聞きされていたと知ったらあの師匠とやらは面白くないだろうが、この娘はいい知恵はないかくらいに聞いてきそうだ。
「えーと、たとえばね。楽器だったらあの弦が鳴っているなとか、剣の稽古だったらあの剣とあの剣が打ち合ったからあの音が鳴っているなって思うじゃない。でも雨って、雨粒ってたくさんすぎてどこって言えないのに、雨の音になるでしょう? それが面白いなって思ってただけ。」
にこにこと笑う彼女に、肩の力が抜ける。
「父上や子建向きの話題だな」
「どうして?」
「詩のようだ」
「そんなことないでしょ。子桓くんだってすごい詩人だって師匠も仲達さんも言ってたし」
「あいつが俺をほめたのか? それで雨なんだろう」
「子桓くん、ひどい」
花がころころと笑う。
…確かに、雨の音はひとつではない。もし聞き取れればひとつとして同じではないだろう。宮城の屋根に落ちる音と池に落ちる音が同じはずはない。――恋のように。
閃くように思って、子桓は苦笑した。
美姫も艶妓もあきるほど見たし、差し出された。恋はそれなりにしたと思うが、まあ、父ほどではない。性質の違いなのだろうが、あの父の息子というだけで何もかも跳ね返る。まったく、いい迷惑だ。
だから、とても意外だ。
動作のひとつ、笑顔のひとつとっても、同じ女なのに、ひとつとして同じではない。それがいつか積もり積もって、何か特別なものが落ちたとき異なる音を立ててそれと分かるのだ。
「俺の父が」
「孟徳さんが?」
(――こんなふうに)
「何の時だったろうな。もうそんなことを話す年ごろでもないから、ずいぶん昔のことなんだろう。いい女と好きな女というのは違うと言っていた」
花は目をくるりと天井に向けた。
「そう…なの?」
「お前は俺の父に寝所に招かれたら嬉しいか?」
瞬時に赤くなった顔を左右に振りながら、花は両手まで大きく左右に振った。髪がばさばさと音を立てる。
「困るよ!」
(ああ、また)
「世の女はたいがい、俺の父の寝所に侍るのが夢だと言う。俺に向かってそう言った女も数知れずだ。俺の父は地位も金もあるし女も好きだが、女のほうで好きにならないやつもいる。そういうことだ」
花は唇をどこか不満そうに引き結んで子桓を見た。
「魅力がないってわけじゃなくて」
「別にほめなくていいぞ」
「そういうんじゃないんだけど…なんか、困るよ」
「何が困る」
「なんだか…何もかもあけすけで。子桓くんとだって、このあいだ、冗談のつもりで言ってたことが振っただの振られただのの話になっちゃうし。」
「浮かれているのだ、みな。お前というこの、世にも珍しい同盟を引き起こした娘、帝の覚えもめでたい娘だしな。」
花は何かもごもごと言った。雨の音にまぎれて聞こえなかったが、きっと、困ると言ったのだろう。子桓にしてみれば、その柔らかさ自体が困る。彼は軽く膝を叩いた。
「まあそれはさておいてもだ、俺たちはいつ死ぬか分らん。」
子桓にとってそれは厳然とした事実だ。この同盟が長くもったとしても、ひとが死ぬのは戦とは限らない。花はすっと顔色を元に戻して彼を見た。
「わたしの気が長すぎるの?」
「別にそれはお前の気性だ。…お前も」
子桓は手を伸ばし、花の額を指で軽く弾いた。痛い、と顔をしかめる花に顔を近づける。
「お前の師匠に重々言われているだろうが、いちいち、揺らぐな。そんなふうでは、お前に婚姻を申し込む者が山になる。そうだな、お前が平手打ちした仏頂面さえもやってくるかもしれん」
ちょっと笑ってみせると、花は意外にも真剣な眼をした。
「子桓くんは違うよね」
「ん?」
「わたしの反応を確かめたいわけじゃないでしょう」
子桓はまた、彼女をじっと見た。そして、今度こそ、心底から笑った。
「お前」
「え? 子桓くん、なんで笑うの?」
あの父ならここで、そんなに自分を好きかと言うところだろう。だが、そこまで踏み込めない自分はどうやら、思っていた以上にいまのこの娘が好きなのだろうと思った。
(続。)
(2012.10.29)
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