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「…では、以上です」
孔明の声が通り、一同は立ち上がった。一礼すると、三々五々、広間から出て行く。花は孔明を見上げた。平穏な表情をしてみせているが疲れている。無理もない、この会議に向けて昨夜は徹夜だったのだ。帝のもとにひとつになるということは、こんなに細かいことまで決めなくてはならないものか。花は、ちょっと前に「あちら」で盛んだった色々な土地の合併を思い出したが、テレビや新聞の記事もおぼろげだった。ここへ来てもう何度目になるか分からないが、もっと勉強しておけばよかった、という甲斐のない後悔を覚えた。これを思うと無駄に落ち込むので、あまりやらないことにしているのだが、ふいにおそわれる。
「師匠」
そっと呼ぶと、孔明がちらと花を見て微笑んだ。
「お疲れ様。あとで今日の議事録を提出してね」
「…頑張ります」
メモは書いているが、早い内にやらなくては忘れてしまう。書けば頭の中が整理できることが多いので、有り難い仕事だ。
「はい、よろしく」
孔明が羽扇を振る。そこへ、衣擦れの音も高く仲達がやってきた。仲達が礼を取るのに合わせて孔明も同じようにする。顔を上げた仲達は、にこりと笑った。
「あなたがいらっしゃると会議に無駄がなくていい」
孔明は羽扇を揺らした。
「仲達殿が誘導してくださるからですよ。」
仲達が楽しげに喉を鳴らした。その視線が花へ向いた。
「やあ、こんにちわ。」
「こんにちわ、仲達さん」
「近頃はうちの公子がお世話になっているね。めんどくさいでしょ、あのひと」
こういうのを不敬というのではなかろうかと花はかえって心配になった。だが孔明がひょこひょこ羽扇を揺らしているだけで何も言わないので、花は微笑んだ。
「子桓さんはとても良くしてくれます。いつも教えていただくばかりです」
「それは良かった。」
なんだかちっとも本気に聞こえないけれど、と花は内心で小首を傾げた。すると仲達はまた、可笑しそうな顔をして花に顔を近づけた。
「ね、こうして話をすることはあんまりないね。」
「仲達殿。我らも職務がございますので」
孔明が呟くように言った。仲達はにこやかに彼を見た。
「立ち話ですよ」
孔明は小さくため息をついた。仲達は花にさらに顔を近づけた。そして唐突に離れた。
「どうしてだろうなあ」
「はい?」
「公子が、あなたを気に掛ける理由がどこにあるのかなあ、とね。容姿じゃないのはもうずいぶん前から分かってたけど」
花は眼を細めて相手を見た。こんな言われ方はもう慣れた。
「分かりましたか?」
「はは、怒ったね。女の子に怒られるのはいいなあ」
その言い様に、孟徳を思い出す。
「…魏はそんなひとたちが多いんですか」
うっかり言ってしまい首を竦めると、仲達はまるで気にした様子もなくにやりとした。
「あなたが平手打ちした令君は別格だけどね。」
また顔が熱くなる。
「魏のひとには、そればかり、言われてます」
「だって衝撃だったもの。わたしも穴を掘ってやりたいと思ったことがあるけどね。」
「…仲達さん…」
「意外と素直にはまってくれると思うけどね、前しか見てないから」
仲達は今すぐにでもやりたそうに窓の方を見た。だがすぐ、花を見直した。
「公子の求婚を断ったってずいぶん噂だ。」
「…昨日の今日ですよ?」
「宮を侮っちゃいけないねー。まあわたしも、朝から執務室に襲撃を受けて知ったんだけど」
「しゅう、げき」
「われらが主公はいつものごとく電光石火でね。弟君はうっそりと扉の影からぐちぐち言ってたし」
そのやり方がふたりらしい。孔明が息を潜めている気がして、花も首を竦めた。
「いまは結婚とか考えていないと言っただけです」
「我が公子に望みはあるの?」
平坦な声で切り込まれ、花は思わず背を逸らした。仲達が小さく微笑んだ。
「言っておくよ、気をつけてね、って」
花が瞬きする隙に、仲達は孔明を見た。
「こんなことで成都にお帰りにならないでくださいね」
孔明はゆっくりと仲達を見た。
「こんなこと、という問題ではございません。ですが、あなたからそのように仰っていただけたこと、我が君にもお伝えいたします」
仲達は軽く頷いて、笑みを消さないままに花を見た。
「じゃあまた」
花は慌てて深く頭を下げた。すっかり彼が出て行くと、孔明は大げさに伸びをした。
「あーあ、疲れた」
「師匠」
「さっそく彼から指摘がきたなあ。まあ君も、今日にも襲撃とやらを受けるかもしれないから頑張りなさいね」
「頑張る、って…」
「いまは考えていない、って言ったんでしょ。じゃあ、いつ考えるの、って話だよ? 君だって、あのこわぁい紅い人にそれで通じるとは思ってないよね」
花は孔明をうんと睨んだ。
「通じてもらいます。だってわたしにはやることがたくさんあるんですもん」
孔明は半眼で花を見下ろしていたが、ふにゃりと腕を下ろした。
「じゃあ今日は気合い入れて書簡の整理からね」
「今日も、です」
乾いた調子で孔明は笑い、歩き出した。花も急いであとに続いた。
花は大きく息をつきながらとぼとぼと回廊を歩いていた。疲れているだけかと思ったが、よほどだるそうだったらしく、すれ違った親しい侍女に心配されてしまった。孔明が容赦なく忙しくしてくれたおかげで何を考える時間も無かっただけなのだが。花は立ち止まり、回廊の欄干に手をおいて夕日を見た。溶けていくように見える夕日に、宮の屋根が黒々と切り抜かれている。風はとても乾いていた。
「はーなちゃん」
小声だったが、花は飛び上がった。孟徳が片手を挙げて笑いかけている。花は駆け寄って頭を下げた。
「こんにちわ」
「うん、こんにちわ。」
深い赤とも見紛う紫の衣をゆったりとさばいて彼は腕を組んだ。その動作とともに、彼に付き従っていた従者が後ろへ離れていく。花は彼らを見て孟徳を見上げた。
「今日は、元譲さんは」
「他の仕事があってね。」
孟徳は夕日のほうを眼を細めて見た。強い夕日に陰影が濃く現れた横顔はとても精悍で、花は見とれた。その唇が笑みをきざんで花を横目で見た。
「何を考えてたの?」
「特に、何も…今日も終わるなあとか、今日も疲れたなあとか」
「うちの息子のこととか?」
花は瞬きして孟徳を見直した。
「びっくりしたよ。」
「あの、わたしは」
「いまは婚儀を挙げられないって言ったんだって?」
孟徳の声は低いけれど良く通った。花はもてあそぼうとした衣の裾を慌てて離した。心を逃がすことを許していい場合ではないと思った。
「わたしは、相手が誰であれ、いまは結婚なんて考えられないと言いました。子桓さんだからじゃないです。」
孟徳は花を上から下までゆっくりと見た。それは彼女があまり見たことのない強い目で、それから目を逸らさずにいるのは体中が強ばるほどの力が必要だった。少しして孟徳はふいと力を抜いて笑った。それは苦笑か失笑か、花には判断がつきかねた。迷った僅かの間、孟徳は花を抱きしめた。身近な誰より強くて印象深い香りに目眩がする。
「孟徳さん!?」
「君は俺のお嫁さんになるんだから、息子たちに惑わされたら駄目だよー。」
彼は花が見慣れた、きらきらした笑顔を向けた。そうして、抱きしめた時と同じ唐突さで彼女を離し、従者を従えて歩み去っていく。花はその後ろ姿をぼんやり見送った。
孟徳は腕を組んで微笑をうかべた。
本当にうちの息子どもは甘い。あれでは敵に堀を掘る猶予を与えたようなものだ。玄徳が作る囲いならどうとでもなるが、さて、孔明は何を上乗せしてくるだろう。息子どもはそれを突破できるか。突破せずともよい方策にあれらは気づくか。そこまで思い、彼はうんざりと天井を見た。まったく、ただの父親のように考えていることだ。彼は今度こそ失笑して、足を速めた。
(続。)
(2012.5.14)
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