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「なりません」
静かに断固とした声音で公瑾が言うと、娘はぶうっと膨れた。心配になるほど妻に似てきた娘だ。きちんと言っておかないとならない。
「どうして!?」
「どうしてもです」
「にいさまはならっているもん」
「兄様は男子です。お前は女子です」
娘はとんと足を踏んだ。
「そんなの関係ないもん! わたしだってとうさまの子どもだもん!」
「それでも、お前は女子です。機織りや刺繍を習いなさい。」
娘は全身に力をいれて父親をにらみ、顔を真赤にした。
「もういい! とうさまのばか!」
何を言う間もなく、娘は部屋を飛び出していく。彼は後ろで控えていた妻に目をやった。
「…なぜ止めないのです」
「止めましたよ」
花は険悪だった雰囲気にまるで気づかぬふうで、にこにこと夫を見上げた。
「あの子には父様がたいへん大好きらしいので、わたしが言ったくらいでは聞きません」
それは素直に嬉しいが、あえて公瑾は渋面をより深くした。
娘には、ひとを殺すすべなど教えたくない。それは妻も同様だろうに。あなたが思い出したようにうなされる夜を知らぬと思うのか。
「花」
口調を改めれば、花は頬に手をあてて小さく息をついた。
「さびしいんですよ。兄様は兵法だ水練だとあの子を構わなくなってしまいましたから。兄様ばかり父様と長い間いっしょにいると思っているんです」
彼はため息をついた。
「それで、わたしにじかに訴えろと教えたのですか」
「言ってません。でも」
妻は小首をかしげた。
「父様が機織りや刺繍も上手と知ったら、ちゃんとやるかもしれませんね?」
「…いつまでもよく覚えていますね」
「忘れません」
ちろ、と花は舌を出した。それからもの思わしげな顔をした。
「一時、兄様にも教えて教えてってまとわりついていたんですけど、あの子は妹をうるさがって抜け出してしまうから、もう父様しかいないと思ったんでしょうね。ああでも、伯言さんが相手してくれるかもしれませんから、あの子の気は済むかしら」
「なぜここでその名前が出るのですか」
「仲良しだと言ったことはありますよね?」
「上司の娘に剣術を仕込む部下などおりません」
花はため息をついた。
「時々でいいんです。相手をしてあげてください。」
「それで真剣になったらどうしますか。わたしの妻は伏龍の弟子でしたからね、娘もその血をついでいる」
花は急に顔を明るくした。
「そうですね、そういうものを習うならおとなしくしているかも。父様のお仕事にもつながるし、って言えばいいんだ」
「花!」
鋭く呼ぶと花はちょっと首をすくめた。
「いいじゃないですか、それくらい。父様がなんでもおできになるから、娘なりにプレッシャー…期待を背負って頑張っているんです。」
「兵法など詳しい娘を、誰が嫁にほしいというのです」
「公瑾さんみたいなひとがいるかもしれません」
「わたしのような者がそうそういるはずもないでしょう」
妻の目がいきなり据わった。
「…どっちの意味で言ってるんです?」
公瑾は明後日のほうをむいた。
「別にどっちでもありません」
「分りました。」
妻がこういう決然とした声音を出すときは、たいがい己に不利になる。彼は横目で妻をうかがった。果たして彼女は、娘と同じ角度に眉を上げてこちらを見上げている。
「師匠は五日後に来るんでしたね。その時に娘もつれていきます」
「は!?」
「あの子は師匠のことも大好きですから。師匠から、父様の素晴らしいところをあれこれ語ってもらって、きちんとお勉強することが素晴らしい父様の役にたつんだと言ってもらいましょう。そうしたらもう父様に剣のけいこをせがんで手を煩わすこともありません」
娘は人見知りというものをほとんどしない。それもこれも、赤子のうちから妻が様々な人に会わせたせいではないか。孔明など、会ったその日にはもう膝で寝ていた。弟子のよいところをよく受け継いでいますねと笑う顔が素直に憎らしかったのを昨日のことのように思い出す。
「花!」
「もう決めました」
「あの男にわたしの娘を説得してもらわずとも結構です! わたしが言い聞かせます」
突風が吹きすぎたような沈黙のあとで、花は急に表情を緩め、彼に頭をさげた。
「よろしくお願いします」
公瑾は下げたままの妻の後頭部を目を眇めて見やった。
「いまでもあなたは伏龍の弟子のようだ」
ため息をつきつつ言うと、顔をあげた妻は苦笑していた。
「まだそんなことを言うんですね」
「言わせるのはあなたですよ」
「公瑾さんだけですよ、もう今は」
懐かしむような、しかしさっぱりと呟く妻の横顔は不思議と澄んでいた。いくらともにいても追いつけない信頼はなぜまだ、繋がっているのだろう。彼はふいと目を逸らした。
(まるで、親子のような)
彼は咳払いした。いまは、娘のことだ。
親の心配、とはうるさいと思う。しかし、相応の理由もあるのだ。…なんという難題だ。公瑾は歩き出した。娘がずっと朗らかに暮らしてくれれば。どのみち、己の手の内など恐ろしいほど小さい。
「きっと西の東屋のあたりにいます」
朗らかな声をかけてくる妻を肩越しにかるくにらむ。妻はすっかり肩の荷を下ろした顔で笑っていた。
(2012.11.8)
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