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妻が髪を梳いていた。窓辺の幕を下ろしたままの部屋はまだ薄暗く、そのぼんやりした視界 で、白い手が花弁のように動いている。
彼女は髪を手でひとつに束ねて前に流し、ゆっくり梳っている。肩甲骨のあたりまで届くようになった髪は、以前はすぐに露わになっていたうなじを隠しているようになった。そのためか、こんな時はその無防備な白にどきりとする。
特別な宴や行事でもなければ凝った髪型をしない妻だ。たいてい首元でひとつにくくるか、ふたつに結んでいる。髪飾りも小さいものをひとつ付けるかどうか、たいがいは複雑に編みこんだ紐で飾っている。公瑾にとっては質素で好ましいと思う時と、もう少し着飾っても良いと思う時がある。化粧が濃い女性はもともと好かないので、妻が塗りこめないのは良い。あのかしましい侍女たちのように塗っていたら、肌の匂いが分からない。
「…伸びましたね」
呼びかけると、花の肩が面白いようにはねた。子どもじみた驚きを有した顔がこちらを見る。
「起きてたんですか?」
「いま起きました」
「起こしました?」
「いいえ」
答えが欠伸に紛れる。花は可笑しそうに微笑んだ。とたんに空気が和らぐ。
「今日はお休みでしょう? 寝ていていいんですよ」
ええ、ともまあ、ともつかない返事を口の中で呟き、彼は天井を見た。確かに、もう少し寝ていたいような気だるさは僅かにある。休みの朝といえば昔はすっきり目覚めるものだったが、近ごろはいつもまどろんでいるような気配がしばらく続く。これは近頃の激務のせいか。まさか年齢のせいとは言うまい。
「今日もずいぶん明るいですよ。暑くなるかなあ」
後半は独り言のようだった。彼女は暑さに弱い。この前、軍師のごとく天気を気にしますねと言えば、公瑾さんのお仕事もあるから気にしますと少し拗ねられた。
彼は半身を起こした。花はまた鏡に向いて、髪を梳っている。
公瑾は寝床から出て、妻の後ろに立った。鏡の中から、彼女が微笑みかける。
「どうしたんですか」
公瑾は答えず、彼女が振り向く前にその指を包み込むように櫛を取った。彼女の髪の匂いがする櫛だ。そして彼女が前に回していた髪を後ろにたぐり、さっきまで彼女がしていたようにその髪を梳くと、花は途端に緊張した面持ちで肩に力を入れた。公瑾は笑った。
「どうしました」
「だって…」
彼女の髪は櫛の間をよく滑る。それは温かいように思う。もっとかさを、長さを増し、そして年齢が彩る日まで、日々、梳かれるこの髪は、どんな景色で飾られるだろう。
「あなただってわたしの髪をよく触るでしょう」
「公瑾さんの髪はさらさらだからいいんです」
「あなたも、よく気を使って梳いているようだ。まれに、面白いような寝癖をつける人ですからね」
「仕方ないじゃないですか、ちゃんと乾かしたつもりでもどこかに水分はあるんですから」
「そんな寝癖がつくほど面白い寝相とはどういうのでしょうね」
「…公瑾さんにだって理由の一端はありますけど」
赤くなって鏡ごしに上目使いで睨まれても、微笑ましいだけだ。
「鏡が少し曇っているようですが、研ぎは呼びましたか」
「え? 曇ってます?」
花は慌てた様子で鏡に顔を近づけた。公瑾が指を絡めていた髪が引っ張られ、痛い、と顔をゆがめる。彼は慌てた。
「大丈夫でしたか?」
「はい~…でも、曇ってるかどうかなんてよく分かんないなあ…」
「定期的に呼んでおきなさい。曇った鏡などみっともないですから」
「そういうものですか」
「ええ。…結い紐はどこです?」
「あ、これです」
花が示したのは青地に金糸刺繍が美しい紐だった。去年、公瑾が送ったものと思う。もとの美しさはだいぶ減ってはいるが、愛着をもって使っているということだろう。公瑾はそれを手に取り、花の髪をひとつにくくった。
「わ、ありがとうございます!」
笑顔で振りむく彼女に笑みを返した。
「では、わたしの身支度もお手伝いいただきましょうか」
「はい!」
花は立ち上がり、いままで自分が座っていた椅子を手のひらで示した。公瑾は大人しくそこに座った。花の手が、彼の頭を丁寧に撫でる。鏡の中で目が合うと、彼女は笑った。
光が遮るその女は、知らぬ唇をしているようだ。
「公瑾さんの髪は本当にきれいですよねえ。伸ばしませんか? 長くなったらひとつに縛れますから。きっとすごく格好いいです!」
「そうですかね」
血糊がこびりついた長い髪など、うっとうしいだけだ。だがほんの少しだけ、彼は髪の長い自分を夢想した。そうしてやはり、僅かに笑った。
(2014.8.10)
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