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茶をつぐ音に、子建ははっと目を開けた。顔をあげると、花が気づかわしそうに小首を傾げる。
「起こしてしまいました?」
子建は首を横に振った。この自分が、馴染んだおんなの褥でもないのに転寝してしまうとは。
自分の部屋とはまるで違う、高価ではあるが慎ましく質素とも思える調度が揃った客間は不思議と心をほどいてしまう。あるじの趣味はむろん優先されているのだろうが、なによりも、目の前の娘のようだ。さて、どちらが影響を受けたものか。こういう夫婦はいるものだ。添うまではまるで合うまいと思っていたのに、時は浅くとも互いが互いの一部のように馴染んでしまう。
「気候がよいと眠気が増します」
笑って言うと、花も目じりを下げた。
「ほんとですね。」
「暖かくなったからあなたも安心でしょう」
花がゆっくりうなずく。
「本当にこの冬は冷えましたよね。いくら炭があっても安心できないくらい。火鉢で部屋をあっためるのにも限度があるし。竃のそばってあったかいけどずっとあそこにいるわけにもいかないし、文若さんは、ひとにはちゃんと着こめっていうくせに自分は薄着でも大丈夫だとか言うし、ずるいんです」
唇をちいさく尖らして言うさまが子どものようだ。
「わたし、小さい頃はよく風邪をひく子だったって言われたことがありますけど、またそうなったのかなって心配になりました」
「今年は令君も寝込んでおいででしたね?」
花はとたんに表情を曇らせた。今年の風邪はみな重く、薬師がてんてこまいだった。文若が倒れたなど、子建ですらあまり記憶がない。だいたい、微熱くらいで云々というのが口癖でそこが面倒な相手だったのだが、今年は違った。父が楽しげに言ったところでは、熱があるのを花が発見し、泣き落すようにして家に連れ帰ったという。
「本当にひどい流行でした。」
「でもあなたが、よく手を洗ってうがいをする、という予防を父に言ったのでしょう? 風邪にかかりはじめの者はそれでずいぶん早くによくなったと侍女たちが言っておりましたよ」
父のひざもとでなければ、神に祭り上げられていたかもしれない。花は首をすくめるようにして頷いた。
「本当に簡単なことしかできないですけど、それで少しでも助けになったなら良かった。孟徳さんったら、褒美の宴を開くとか言いだして困りましたけど」
「大丈夫ですよ、それで上がるのは令君の評判でしょうし」
花はくすぐったそうに微笑った。その微笑みがすうっと消えて彼女は俯いた。
「ほんとうに、無事に済んでよかった」
つぶやくような調子に、子建は目を細めた。彼女が文若を留めたというむかしの噂を思い出して聞くと、それはひどく意味深だった。
「子建さん」
ふと呼びかけられて彼は顔をあげた。花は不思議な表情をしていた。
「冬のたびにこんなことがあるんでしょうね?」
彼はあいづちのうちようがなく、かすかに首を傾けた。花は彼ではなく、とても遠いところに話しているかのように目を細めていた。
「いっとき、文若さんの熱がすごく高くなって怖かったです。そのあとわたしも二日くらい寝付いちゃって、文若さんが不安そうでした。あのときわたし、大丈夫ですからってしか言えなかったです。文若さんも熱がでてるとき、大丈夫だって言ってくれたけれど、ああ言うことしかできないものだなあって身に染みました。季節ごとにこんなことがあるんだろうなって思ったらとても怖かった。…わたし、たいした熱でもないのに、死にたくないって思ってしまいました」
恥じるようにかすかになった彼女の声に、子建はそっと彼女のかたわらに座りなおした。花は彼を見ない。
「玄徳さんのところにいたときも必死だったし、文若さんのときもわたしなりに必死でした。でもわたしいま、あのときよりもずっと、文若さんと一緒にいたいです。それだけで、死ぬのが嫌です。本当に、震えるくらい嫌です。怖いっていうより嫌です。…死ねないって、こういうことなんでしょうか。」
唇をかんだ白い顔と膝の上できつく握り合わされた白い小さな手をしばらく見て、子建はゆっくり彼女の手に袖を重ねた。
だからこそ、あのかたもあなたと居たいのだとあからさまに言って聞かせるのは違う気がした。それこそ、ふたりで支え合うようにして歩む年ごろになったころ、思い出せばいい。彼女がかわいらしいおばあさんになったとき、笑って彼に言えばいい。きっと彼は年経ても変わらぬ眉間の皺のまま、埒もないと呟くのだろう。
花が顔を上げ、子建を見た。思い出をさまよっているような目が急に焦点をむすぶ。彼は笑いかけた。
「来年の冬にはせいぜい厚着をしてもらうのですね。策はおありでしょう?」
花の唇が少しゆるんだ。
「そうですね…文若さんが着こまなければ、孟徳さんや子建さんにもらった綿入れを着ますと言うことにします」
酷い、また愛らしい言い様に頬が緩む。彼がそうしないことをいつしか彼女は知っている。
「では張り切ってお贈りしましょう」
文若の眉間のしわはたいそう深くなるだろう。ふたりは顔を見合わせ、同時に笑いだした。
(2012.11.13)
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