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父上は怖い。
幼い頃からそれは厳然としてわたしたち兄妹のあいだの共通理解だ。それはこれからも変わらないだろう。
母上だって怒ることはある。木に登っていたら、あとでその木を見たくなくなるくらい怒られたこともある。けれど母上はいつもどこか柔らかくて、父上にたしなめられて笑っている、その姿ばかり思い浮かぶ。父上がいるといつも背筋が伸びてしまうような、そういう感覚とは違う。
要は、とても追いつけない存在なのだ。どんなに上手にできた書き取りも、おいしくできたおかずも、父上の前に出るととたんに行儀をよくするような気がした。
だから、あのときの父上は例外だ。
その頃、母上はよく床に伏していた。わたしはとても幼かったので、母上と遊べないことや一緒に昼寝ができない日ばかり多くて、むしゃくしゃしていた。きっと、そういう日のどれかだったのだろう。
兄上はその日、居なかったように思う。わたしは隠れるところを探して、家の中をうろうろしていた。とにかく、いろんなことが気にくわなかった。そればかり思って、大好きなお菓子を床に投げて侍女に叱られ、部屋から逃げてきた。お客様がおいでだから部屋にいらしてくださいと侍女に言われたのでなおさら、わたしは大股で走った。
その扉は家の中でいちばん立派だった。そして、子どもは入ってはいけない部屋だった。でもそこはおもしろい顔の仙人の像やきれいな壁掛けがたくさんあって、とても魅力的な部屋だった。わたしは、そこに入ってやろうと思って前に立った。
「いい加減にしていただきたい」
そのとたん聞こえてきた声に、わたしは立ち尽くした。父上の声だったからだ。相手が何か言ったが、父上は、お帰り下さいと結構ですを繰り返すだけだった。しばらくして乱暴な、わたしだったら父上に叱られるだろう足音をそれきりに、部屋の中は静かになった。
どうしようと思う間も無く、わたしが立っていた前の扉が開いた。父上はわたしを見て驚いたようだった。
「何をしている」
わたしがどう言ったのか、覚えていない。父上はわたしを抱き上げて後ろ手に扉を閉めた。とても行儀の悪いそれを父上がしたので、よく覚えている。父上は側に立った爺やに、塩をまいておけ、とよく分からないことを言った。爺やも分からなかったようで、しばらく黙って立っていたが、父上がそれに気づいて、花の故郷では二度と来て貰いたくない客が帰った時にそうするのだと、激しい口調で言った。お塩は高価なものなので、爺やはちょっと迷うような顔をしたが、すぐに頭を下げて立ち去った。
そのときわたしは、豪華な部屋に入ろうとしたことが分かったので父上が怒っているのだと思い、震えた。逃げたかったけれど父上の腕は強く、わたしを下ろしてくれそうに無かった。
父上は東屋まで来て、わたしを抱いたまま座った。お前も重くなったと、わたしを見て笑った。父上はわたしに怒っていないのだと、その時、やっと分かった。
「父上」
わたしが呼ぶと、父上はわたしをすっかり抱きしめた。父上はいつも墨の匂いがした。すこしいぶした香木のようなそれがわたしは大好きだったけれど、その時は落ち着かなかった。
父上はそれきり、何も言わなかった。動くわけにもいかなくて、わたしは庭や父上や、向こうを横切っていく侍女を眺めていた。
ふいに、父上はわたしが居ることを忘れたように低いけれど激しい調子で言った。
「――なぜ、信じない」
それが泣いているように聞こえてわたしは父上を見たけれど、わたしを抱きかかえる手が痛いばかりで顔は全然見えなかった。
「ただ花だけでいいのだ。それをどうして信じない」
わたしはどうしたらいいのか分からなくて、ただ父上の肩に縋っていた。少しして父上はわたしを抱いたまま立ち上がり、家に戻った。
それきり、父上はそのことについて何も言うことはなかった。
あのときは、父上に第二夫人をすすめる人がたくさん居たという。もともと、父上にひとりしか母上がいないのはいかがなものかという話はずっと多くて、兄上など、そういったひとから直接言われたこともあるようだ。わたしは小さすぎて何も知らなかった。それが悔しい。
いま、父上に第二夫人をすすめるひとが居たら、わたしもちゃんと加勢できる。でもそれは必要ない。
母上とふたりでいるとき、父上はわたしや兄上を見ている時なんかよりずっと、優しいのだもの。母上はあなたたちを見ているほうが優しいと言うけど、絶対、母上とふたりきりの時のほうが父上の顔は「とろけている」のだから。
(2012.2.22)
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