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二次創作。はじめての方はat first はじめに をご一読ください。
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文若さんと花ちゃん。お子さんの話です。

 (拙作の時系列では、いちばんあとです。)





 わたしが公子のところから帰ると、母上は明るい窓際で書を読んでいた。そのころの母上は、明るい日や暖かい日は窓際にいるのが常だった。もう朝夕の冷え込みが厳しくなっていて、濃い青の長衣を重ね着した母上は窓辺に止まった小鳥に見えたものだ。
母上、と呼ぶと、母上は立ち上がって微笑んだ。
 「お帰り」
 「ただいま帰りました。」
 母上は、付いてきた侍女に茶を用意するように言うと、傍らの椅子を引き寄せた。それに座ると、机の上が見えた。巻いた簡がいくつかと、母上の筆や硯が並んでいる。いい匂いの簡もある。窓の外からはかすかな花の香りと、枯れ始めた葉の匂いがしていた。
 「今日は何を勉強したの?」
 微笑んで母上が尋ねた。わたしは大きくなって体が丈夫になると、「おにいさま」とこの邸で呼ばれていた公子のところへ様々なことを習いに行っていた。それには、父上と公子の父上のあいだでずいぶんと難しい交渉があったらしいのだけれど、わたしは知らない。ただ、そのひとはこの邸で琴を弾き、詩をうたい、遠い西の世界を話してくれた。体の弱かったわたしを外の世界へ誘ってくれたそのひとを、わたしは本当の兄のように思っていた。父上は、あの方に対してはと常に厳しい礼儀をわたしに説いて聞かせたけれど、公子の邸はただ典雅で、わたしは旅をするような気持ちでその邸に伺うのが常だった。
 「琴!」
 「そう」
 母上は羨ましそうに頷いた。
 「公子さまは、とてもきれいな女の人を先生に呼んでくれたの。そのひとに習ったの」
 天女かと思うような、いま思い出してもぼうっとなってしまういい匂いのするひとだった。もしかしたら公子秘蔵の人形じゃないかと思ったくらいだ。あのひとがくすくす笑うと、羽で頬を撫でられたような気がした。
 公子のそばには、そういうひとたちがたくさんいた。もちろん中には奥方もいたのだろうけど、入れ代わり立ち代わり、様々な女の人たちにわたしは会った。あの邸でわたしは思慮深い口調の男性から歴史を学んだり、口数少なくいつもしかめ面の男性から兵法を学んだりもしたけれど、思い出すのは女性ばかりだ。
いちどきりの人もいたし、何度か会うひともいた。詩を上手に作るひと、それをうたうのが上手いひと、刺繍が美しいひと、ただ微笑んでいるだけで満たされるようなひと。女という生き物の美しい面を、わたしは繰り返し見せられた気がする。
そう、と母上はまた頷いた。
 「きっと上手になって、父上のお祝の日に披露しましょう。」
 父上のお祝いの日、というのは、年に一度、母上が決めた日だった。由来は知らない。うちにはそれぞれのお祝いの日というものがあって、兄上や姉上とわたしは、生まれた日ということになっていた。その日はごちそうが並んで、父上も早く仕事から帰ってくるし、母上もとてもきれいに着飾った。そして、わたしたち子どもは何か披露するのが恒例になっていた。兄上は面白みのない詩を詠ったり、姉上は織物を差し上げたりしたものだ。わたしも、ずいぶん幼い時に母上に聞いて、「肩たたき券」を差し上げた。あれは結局使ったろうか?
 「母上は琴を弾かないの?」
 母上は申し訳なさそうに肩を竦めた。
 「もうずいぶん触っていないなあ。まず修理するところから始めないとね。」
 「わたしと一緒に弾いたら、父上は喜ぶよ」
 「そうだねえ」
 楽しそうに母上は笑った。わたしは運ばれてきたお菓子を食べながら、母上が脇にどけた簡を見た。
 「何を読んでいたの?」
 「歴史の本、かな。最近、お仕事を辞めた方がね、自分の人生の出来事を詩にしたものだよ。」
 わたしはふうん、とだけ、言った。習った歴史は字のつながりでしなかなくて、それを詩にするというのは見当がつかなかった。
 「それはみんな、書くものなの?」
 「どうかしらね。この方は詩がとても上手だから、素敵な本だよ。あとで読んでみるといいよ。こうしていると、そのひとがいまここにいるようで素敵ね。」
 それを聞いてわたしは、もしかしたら、ここへよく来ていた「丞相さま」のものかもしれないと思ったけれど、確かめることはしなかった。
 「父上もそういうのを書くの?」
 わたしが言うと、母上は笑った。
 「どうして?」
 「だって父上はとても偉いんでしょ。たくさん書くことがあるんじゃない?」
 「そうだね…でも、もし本当に執筆したら、父上は泣いたり怒ったり、とても忙しいと思うよ。」
 父上が泣く、というのはよく分からなかったけれど、母上が笑っているので、お菓子がほしくて泣いたり、姉上との喧嘩で負けて泣いたりするのとは違うのだろう。
 「忙しいの?」
 「ええ。書きながら怒っているよ、きっと」
 母上はなおも笑いながら言った。母上がこんなふうに笑う時は、母上のまわりが穏やかに灯るように見える。
母上の側には、許されている気配としか言いようのないものがあった。それは世の母親がすべて持っているものかもしれなかったが、わたしがあの優しい公子のところに通って出会った、たおやかな気配だけのような貴婦人たちにはないものだった。
 父上にも、同じ疑問をぶつけてみようとわたしは思った。父上は、なんと言うだろう。いつも怖いような父上の眉間は緩むだろうか。どう聞いたら効果的か、公子さまに相談してみよう。
 「母上は書かないの?」
 ふと聞くと、母上は目を丸くして動きを止めた。ややあって、肩から力を抜いて笑う。
 「そうね…」
 「わたし、読みたい」
 思い出したようにしか噂されることはないけれど、母上は遠い異邦の出身らしい。公子や師たちが教えた凍りつく北でも常春の南でもなく、どこか遠く。母上の口からそれを聞くことはなかったから、その、異邦という言葉はいつも古い呪文のように響くのだ。だからわたしは知りたかった。
 母上はわたしを見、それから窓の外を見た。目を細めた横顔は、公子がその兄上を、もういない美しいひとのことを話すときとよく似ていた。
 「わたしはきっと書かなくても大丈夫なのよ。」
 囁いたきり、母上は何も言わなかった。気乗りがしないという風情ではなかったけれど、それ以上、押してねだることができないようなものが母上の横顔にはあって、わたしは黙って茶を飲んだ。


 


(2014.11.13)

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