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文若は部屋を見回して深く息をついた。…花はどこへ行った。休憩は命じていない。戻れば彼女が出迎えてくれると思っているだけにそうでなかったときの気の抜けた心持ちが嫌いだ。そう思ってしまう自分がふがいない。
彼女の机を見る。筆を硯の上に置き、手習いはひとつの字を完成させることなく途切れている。椅子は立ち上がったときのまま机に戻されていない。いかにも慌てて席を立ったかのようだ。
彼女が急ぐ用事とはなんだ。考え込む彼の耳が何かをとらえた。ことさらにゆっくりと顔をめぐらす。
話し声だ。壁の厚い部屋ではあるが、完全に物音を遮断できるわけではない。まして、官吏が忙しく行き交う時間帯ではないいまは雀の足音さえよく聞こえる。文若は話し声が聞こえる壁を見定めた。この自分の執務室の隣でこそこそと何をしている、という怒りが寄せてくる。足音をひそめて彼は外に出た。話し声がするとおぼしき部屋の前にかがみこむ。
「…良かった」
文若の背が揺れた。花だ。
「心配だった?」
丞相、と彼は声に出さず唸った。なんという、いつにも増して甘い声だ。
「はい」
「そうだね。花ちゃんは心配して当然だ」
「そんなこともないんですけど」
「いや、そんなことはないよ。花ちゃんはお母さんなんだし」
「もう…またそんなこと」
恥じらいと、隠しきれない甘い調子が滲んだ声だ。
「母は子の心配をするものだからね。」
「そんな風に呼ぶの、やめてくださいって言ったのに。おかあさんなんて言えないんです、わたしは。こうやって心配するだけなんですから。…それで、いまは元気なんですね」
「うん。ちゃんと食事もとって良い子にしてるってさ」
「本当に良かった」
さわ、と衣擦れが聞こえた。室内はしばし沈黙がおちた。
「あの…でも、孟徳さん。いつ、文若さんに言ったらいいんでしょう。なんだか機会をのがしてしまった感じがして…」
花の声はほんとうに困惑している。
「そうだね。かなり微妙な問題だ」
彼の声が低くなる。朝議などでは非常に効果的な調子だ。この声が降った途端、座は彼のものになる。官たちの話し合いのあいだ、意図的に消していたのではないかと思う存在感が急に大きくなる。
重いため息が聞こえた。花のものだ。
「文若さんは、こんなことは不愉快じゃないでしょうか」
「花ちゃん」
「最初から打ち明けていればよかった。文若さんは話せば分かってくれるひとです。でも、ちゃんと決まってからって思ったのがよくなかったんです」
湿って揺れてくる声が徐々にかすれる。
「君がそう思ったのも無理はないんだよ。そんなに自分を責めなくていい」
「でも、わたし…!」
「大丈夫。何があっても俺が世話をするよ」
文若は大きな動作で立ち上がった。扉を両手で押すようにして開く。ひっ、という小さな悲鳴が聞こえた。
「ぶん、じゃく、さん」
彼はその声には目をくれずに孟徳を見た。腕を組んで立っていた彼が、ゆるやかに文若を見た。
「趣味が悪いな」
花の視線が孟徳と文若をおろおろとさまよい、さっと青ざめた。話の内容を文若が聞いていたと孟徳が示唆したことに気づいたのだろう。文若の前に走り出るようにして立つ。
「文若さん、違うんです」
「何のことだ」
久しぶりに彼女相手にこんな声を出した。花は拝むように胸の前で両の指を組んで彼を見つめた。
「文若さんにはちゃんと言おうと思っていたんです」
「お前が母親という話か」
ああ、と、ため息のような悲鳴のような声が柔らかい唇から漏れる。
「違うんです」
「何が違う。お前がそのような立場だと考えてもみなかったが、これは、ひとえに、わたしの配慮が足りぬのだろう。しかし、そうであるならば最初からわたしに相談すれば良いではないか。そのような立場がわたしと婚儀をあげるときに障りになるとでも思ったのか。お前の子ならわたしはきちんと迎え入れる。隠しておかれるほうが…辛い」
不愉快だと言おうとした。そのような保身は好まぬと言うつもりだった。しかし、口からこぼれたのは思いがけず弱々しい訴えだった。
すっかりうつむいた花の肩が震えている。
今日は、届いたばかりの新しい茶を入れようと思ったのに。彼女が朝、摘んできたうす青の花を話題にしようと、お前の気遣いが嬉しいと言いたかったのに。
唇を噛む文若の前で、花ががばりと顔を上げた。怒りなのか恥なのか、真っ赤になった顔のまま両足を踏ん張って立っている。
「文若さんのばか!」
「な…に?」
「どうしてそう決めつけるんですか、思い込んじゃうんですか! わたしまだ、何も言ってません」
「なら、言えばいい。お前は」
「わたしの話じゃありません! にゃんこちゃんの話です!」
「にゃんこ…ちゃん?」
ざらりと衣擦れの音がして、頭の後ろをかきながら孟徳が文若の側に立った。
「やれやれ、薬が効きすぎたっていうのかな、こういうのも」
「…丞相」
「彼女の言う通りだよ。彼女から猫の仔の世話をする人間や場所を相談されてね。彼女の感情からして、お前の補佐をしながら猫の仔まで構えないだろ? たいそう親身にしてた様子が母親みたいだったからそう呼んでただけだ。」
「なぜ、そのようなことを丞相が」
「彼女が猫の仔をかかえてるところにたまたま行き会ったんだよ。お前に相談する前に、きちんと当てをみつけたいって言われたんだ。別にお前をないがしろにするつもりはないよ」
「…そう、ですか」
空気がどっと肩に背にのし掛かってくる。なぜ自分は気が抜けたように思うのだ。さっきも花の子ならばきちんと迎えるつもりだと言った、それが偽りとでもいうのか。…お前のやわらかい唇が、あたたかな掌が、好きだと潤む目がすべて己だけのものだったはずではなかったのか、など、浅ましいにも程がある。
文若は花を見た。きつく唇を噛んでこちらをまるで睨むように見ている彼女に、ゆっくりと頭を下げる。
「すまん。早とちりだ」
彼女が、大きく息を吸う音が聞こえた。
「いえ、こっちも紛らわしい言い方をしていました」
文若は頭を上げた。振り返り、出て行こうとしていた緋色の後ろ姿をはったと睨む。
「丞相」
「ん?」
「のちほど、お話しがございます。くれぐれも、お出かけなさらぬよう」
孟徳は僅かに肩を竦めただけで、何も言わずに出て行った。その足音がすっかり聞こえなくなってから、文若は花に近寄った。まだ視線を合わせない彼女の肩にそっと手を置く。
「すまなかった」
「…いいえ」
上目遣いに文若を見る花の目尻はうっすら紅くなっていた。
「あの…わたし」
「なんだ」
「こんなことをいうのはどうかと思うんです、けど。わたし、文若さんのこと」
花は拳を握ったり開いたりして俯いた。文若はじっと待った。おそろしく時間が経つのが遅い気がした。花が顔をあげる。さっきと同じように紅く強張った顔は、しかしそれが怒りではないと理屈でなく分かる。
「は、初恋だと思いますからっ」
そのまま彼女は、文若のかたわらを脱兎のように通り過ぎた。しばらくして、ぬくもりをうしなった掌を文若は袖の中にたくしいれ、身を返した。
隣の執務室まで、おそらく十歩に満たない。
最初の言葉はなんとしようか、迷うには短すぎると思った。
(2012.9.11)
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