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早安、と声をかけようとして覗き込んで、花は口元を押さえた。窓をすっかり下ろした部屋は暗くて、彼が眠る背中だけがうすぼんやりと見える。そういえば昨日は遅くに帰ってきていたから、と花はそろそろと寝室の入り口から後ずさった。
彼はとても眠りが浅いし、耳聡い。寝坊したりすぐ眠くなったりする自分とは大違いだと思うが、彼はそういうこつを知っているだけだと言う。彼の以前が以前だから寂しく仕方ないとは思いつつ、戸口を覗き込む程度でも前ならすぐ返事があったのにと花は少しうれしくなった。
お昼ご飯を一緒に食べないかと思ったが、自分だけですませよう。早安に言わせると自分は始終おなかをすかせているらしい。でも、もと居た世界よりも格段に動き回ることが多いのだから仕方ない。花は腕を曲げてちからこぶを出そうとしてみた。近所の奥さんたちにはほそっこい腕と毎日のようにからかわれるが、洗濯も炊事もそれなりにできるようになってからはずいぶんたくましくなったと思う。
「なに、やってんだ」
低い声に花は飛び上がった。振り向くと、面白そうに唇を曲げて微笑っている早安が立っている。
「い、いつから」
「今。」
彼はかすかに首をかしげた。
「何か、用だったか」
「あ、お昼を一緒にどうかなって。昨日もらったお芋をふかしたのがあるし」
「もらう」
「じゃあ準備するね」
歩き出そうとした花の腕を、早安がかるく引いた。とん、と背中から彼の胸に当たる。
「早安?」
「それで、何をしてたんだ」
「ああ」
花はちょっと照れた。
「たくましくなったかなあって。ほら、最初のころは洗濯しても上手に絞れなかったりしたし」
彼の顔に了解した表情が浮かぶ。洗濯自体もいつまで揉んでいればいいのか分からなかったり、自分ではたくさん絞ったつもりでも物干し場の下に水たまりが大きくできたりしてからかわれた。
「本当に、早安がいなければ路頭に迷ってた」
彼は僅かながら、なぜか怒ったような、困ったような顔になった。
「あのころは別に、俺ができたからいいだろう」
「でもあんまりにもできなくて、わたしがどこかのお姫様なんじゃないかって近所のひとに言われたりしたしね。早安もそんなこと言われた?」
「…いや」
「ずいぶんストーリー…えっと、話をふくらまされたりしたんだよ」
まるで悪気はないだろうし、村の人にはよく気にかけてもらったのだが、こそばゆいようなドラマティックな物語を作られて閉口したことも本当だ。花はふと、顔を曇らせた。
「あの奥さんも、ご主人がいくさに行ってしまって戻らなかったから、故郷に帰るっていってここを出ていってしまったけど。無事についたかな」
「近い村だ」
「そうなんだってね。でも、無事についてればいいと思うよ。」
早安の腕がゆるく花のからだに回された。肩にあごを乗せられ、首筋を息が撫でた。
「どうしたの?」
「お前の声だと思っただけだ」
「え?」
「…分からなくていい。俺もわからない」
変わらない調子の声に、花は後ろから回された腕に手を添えた。
「家だよ、早安。わたしと、早安のいるところ。」
「ああ」
「あのね、早安がいないあいだにあったこと、いっぱいあるんだ。」
「そうか」
「早安が言っておいてくれたからお向かいのおばあさんの膏薬はすぐ出せた。村の入り口に住んでるお母さんの薬をあそこのちっちゃい子が取りに来た時にもね、すぐ分かったよ。わたしも字がもっと上手になるようにしないと、早安にいつまでも絵で説明させちゃうなって思った。馬は道中、元気にしてた? あの子が来てから、荷物をたくさん運べるようになって有り難いね。」
「…ああ、そうだ」
ふいと背中のぬくもりが離れて花は振り返った。早安が、部屋の片隅に置いたままのつつみをひとつ広げている。中から、大きな分厚い衣が出て来た。
「少し重いが、冬に掛けて寝るにはちょうどいいだろう。あったかいと思う」
花はおそるおそる、衣を手に取った。襟や袖口の布こそ地味な色だったが、身ごろの柔らかな生地やところどころに残る金糸刺繍をみると、お金持ちの古着らしい。それはいぶした草のような匂いがした。彼が医療に使う草や実を干しておく部屋の匂いだ。花は顔を上げた。
「あったかそう! よく干して使うね」
「ああ」
「そっか。もう、冬が来るんだね」
花は眼を細めて窓の外を見た。彼女の知らない冬が来るのだ。
「そうだ。もうすぐこのあたりも雪に埋もれる。だから塩とか色々買ってきた。」
早安は言いながら、花の髪に手を置いた。僅かに頭が重くなって手をやれば、硬いものに触れた。
「なに?」
「安物だけどな。あんたに似合う」
どこか楽しそうな口調で早安は言い、他の包みを解き始めた。花は慎重に土産と言われたものを髪から外した。うすい緑にミルクを流したような白の混じった小さい丸玉がみっつ、くすんだ金色の挿櫛に留められている。玉のかたちはいびつで、よく見るとへりが斜めに削ってあるのも見えた。欠いてしまったのを誤魔化すためだろう。花はゆっくりその飾りを抱きしめた。
こういうものを、村でも比較的金持ちの家の娘が、このあいだ、自慢していた。こんな色の石は高価なのだと、まわりに娘も口々に褒めていた。花はそっと早安に近づき、後ろからその背に抱きついた。
この場所で、贅沢がどれだけ重いものか知り始めている。まして冬を迎えるのだ。
「なんだ」
「ありがとう。…でも、早安がちゃんと帰ってきてくれたことのほうがうれしいよ」
彼は肩越しに振り返った。そして、いつか会った君主を思い出させる凛々しさで微笑した。
(2012.8.21)
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