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玄徳さんと花ちゃん、婚儀後しばらくして…です。
遠くで話し声がする。
花は椅子でうとうとしかけていたが、頭を振るようにして立ち上がり、灯りをもうひとつつけた。頼りない影が揺れていた室内は一気にうす橙の色で染まる。この時、いつも身体まで温かくなるような気がする。ならばいつも灯りをつけていればいいのにと、添ってしばらく経った夫は言う。けれども、こんなふうに上等の灯りの油がいくらで売られているのか花は知っている。だからよほど切羽詰まったとき以外、点けないようにしている。どうせ寒がりの自分は火鉢にすぐ火をいれてあったかい羽織を着込んでいるのだから、視覚効果というやつだ。
かるく扉が叩かれるとすぐ、花は扉を開けた。少し疲れた顔の玄徳が笑った。押し寄せる夜気に混じって水の匂いが強くする。雨が近いのだろうか。雨はもうあんまりいらないねという、孔明の昼間の呟きがよみがえる。実際、芙蓉姫に教えて貰って楽しみにしていた酸っぱい紅い実のなる木も、実りが遅い。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま。」
ぽんと、頭に手を置いて玄徳は室内に入った。襟元を緩め、上着を脱ぐ。慌てて代わりの衣を肩に掛けると彼はまた少し笑ってそれに袖を通した。大きなため息とともに長椅子に座る。椅子が大きくきしんだ。花は後ろからのぞき込むようにして彼の横顔を見た。
「玄徳さん、お酒を持ってきてもらいましょうか?」
厨房に走ることは簡単だけれど、この城はどこもかしこも明るくしてはいない。だから玄徳は花の夜歩きを厳に戒めている。侍女にもってきてもらうしかないので気は引けるが、彼が望むなら頼もう。玄徳は少し考える目をしたが、あっさり首を横に振った。
「いや、いい。ここに来てくれ」
椅子のあいたところを軽く叩かれ、花は頷いてそこに座った。途端に玄徳が抱きしめてくる。
「玄徳さん?」
いまの彼は、男が強く香った。これは相当疲れている。特に昼間、肉体労働をしたという訳では無い時も、心労があるときは彼の匂いが強くなるように思うのだ。最も、彼がここに帰ってくるのが夜遅いせいなのだろう。抱きしめられるその懐の温かさは素直に嬉しいけれど、これにはまだ慣れない。うわずりそうになる声をなんとか抑える。
「ああ、疲れた」
くぐもった声が耳元で聞こえた。
「お疲れ様です。」
孔明も結局、花が彼の部屋にいるあいだに会議から帰ってこなかったから、相当な難問なのだろう。自分も不必要に踏み込まないことに慣れてきたけれど、こんな顔をしている夫には正直、強く踏み込みたい。その胸のうちに溜まるものを洗ってしまいたい。どうせそんなことなどできもしないくせにいつもそう思う。面倒だけど、誇らしい恋だ。
「明日は早く帰って来たいな。お前の料理が食べたい」
もそもそと言い続ける夫に、花は目尻を下げてその背を撫でた。
「何がいいですか?」
「何でもいい。」
「それがいちばん困るんですけど…」
母が呟くそれを、実感をもって口に出せるようになった自分がおかしい。
「何でもうまいからな、仕方ない」
「玄徳さんってば」
「ああ、明日は、俺への簡はぜんぶ花に持たせるようにしてくれないものかな。」
しみじみ、という口調に花は肩を縮めた。
「わたしが浮き浮きして駄目だそうです」
「ん? 孔明がそう言ったのか」
「はい。簡をどこに持って行くかすぐ分かるような顔をしてる子はちょっと注意しなさいって。」
そんな顔ができなくなるなら早くしたいものだ。そうすれば玄徳に会う機会が増える。でもやっぱりまだ、そんな顔はできそうにもない。
「だから三回に一回ねって言ってました」
玄徳は小さく声を上げて笑った。
「あいつめ、禁止すると俺があいつの部屋で執務しかねないというのを分かっているな」
「玄徳さんってば…」
笑いながら、胸のどこかが痛んだ。
花が来る前から玄徳の部下として働く年配の官から助言とも進言ともつかない言葉を貰ったばかりだ。奥様におなりになったうえに働くと仰るなら玄徳様の執務室で夫の世話を焼かれたらいかがかと。
玄徳への恋のためにここに残った。だったらすべて玄徳のためにあっていいのかもしれないし、それにはその官が言ったような献身も含まれているのはよく分かる。奥方がこのような簡運びなどと心配されたり呆れられたり、玄徳に進言されるようなことも無くなる。
これから先、どう変化していくかは分からない。でも今は、それだけでは違う気がする。孔明や芙蓉姫のように在りたいと願う気持ちはまだとても強い。うまく言えないから、言ってくれた官には頭を下げるだけにした。そのひとの言葉にはいつも嘲りはなかったから。
玄徳が花の頭を自分の肩に引き寄せた。そっとうかがうと、彼は目を閉じている。口元が微笑んでいる。
「明日ひどく忙しくなければ、お昼頃になにか持っていきますね。」
「花の分もな。」
「はい。一緒に食べましょう」
「では、明日は少しの暇があることを願うとするか」
ああ、とてもそんな隙間はありそうにないのだなと花は分かった。でも準備だけはしておこう。孔明の邪魔をしないような、すぐできる料理。僅かでも笑顔で受け取ってくれるあなたを思えば、忙しく回転する頭の中が止めようも無く幸せだ。こういうところが孔明やあの官に気にされるのだろう。…きっと玄徳も気にしている。
どうか待っていてください。わたしはこの姿だとあなたたちに自信を持って微笑み返せるまで。そういうことを気にするまでもなく立てる日まで。花はそっと手を握りこんだ。
(2013.9.9)
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