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二次創作。はじめての方はat first はじめに をご一読ください。
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 パラレル祭り「花宵夢想」にて展示いただいていた、ダブルパロ・仮称ぷらんつ公瑾くんです。最後にちょっとだけ追加。


(一)

 その店はとても不思議な場所だった。
 だいたい、高校生の花が日常を過ごす場所ではない。街の中でも少しばかりいかがわしい――だが心得た者には刺激と娯楽を提供してくれるような、隠れた店ばかりが並ぶところだ。花も友人と、好奇心と罪悪感でこの場所の話題をすることはあっても、足を踏み入れたことはなかった。
 それがどうしてここで茶など呑んでいるのだろう。花はまた、店主を見上げた。店主はにっこりと笑った。エキゾチックな服の似合う長身長髪の店主は、慇懃に頭を下げた。雑多だが奇妙に居心地のいい店内は仄暗く、店主すら人形のように見える。
 「あ、あの、本当にホンットーに買わなくてもいいんですよね?」
 「はい。」
 簡潔な答えと共に、ひるむような商売用の笑顔が贈られて花は慌てて目を伏せた。
 「もちろん、出会いは一期一会―――お気に召した子が居れば、是非お考え下さい」
 「あのでもっ、わたし高校生ですからっ」
 「お値段の問題ではございません」
 ひどく説得力のある調子で言われ、花は口ごもった。
 「あ、じゃあ…見てまわっていいですか」
 「はい。」
 花はおずおずと立ち上がった。店内をゆっくり歩く。価値があるのか無いのか分からないが、この店はそこらじゅうにいろいろなものがあって、うっかりすると倒してしまいそうだ。しかし、その恐ろしい値段とともに秘密めかして語られる『観用人形』の店だ、何があるか分からない。
 黒檀の椅子に座った黒髪の少女は、雪のようなドレスを着ている。
 堆朱の床几には薄茶の髪の少女が熊のぬいぐるみを抱いている。
 紗のドレープにくるまれて座る金髪の少女は、己にそっくりの人形を抱いている。
 それ以外にも様々な美しい少女たちがみな、目を閉じているのはやはり迫力ある眺めだった。花は店主を振り返った。
 「本当にみんな、眠っているんですね…」
 店主は頭を下げた。
 「巡り会うべき方が来たら、目覚めます」
 花は頬を紅潮させた。それこそが、この人形たちに胸を熱くする者がいちばん語りたがるところだ。
 深い海色のカーテンをめくると、そこにも人形たちが居る。
 「あれ? こっちは…男の子?」
 「はい。まだプロトタイプではございますが、かねてよりのご要望も高く、伝説をうたわれる名人の技を受け継ぐ弟子が心血かけて完成させたものでございます」
 このひとの言い方はいちいち大仰で、つい頬がひきつってしまう。
 その部屋は、少女たちの居る場所より少し狭かった。落とした照明の中、さっきまでと同じように少年の人形が眠っている。
 ふと、かちん、という音がして花は振り返った。
 灰にも見える薄藍の髪の、透き通るような肌の人形が座っている。その足下に、小さな玉が落ちている。拾おうとかがみ込んだその手元に、こちん、ころん、と同じような玉が転がってくる。あたりを見回した花は、その人形の目尻に何か光ったかと思うと手元に玉が落ちてくるのを見て飛び退った。勢いよく背を店主に当てて慌てて振り返る。
 「驚かせてしまいましたね」
 「え、あ、あれ、玉…? え?」
 店主はゆっくりとした動作で花が落とした玉を拾い集め、彼女の手のひらに乗せた。
 「天国の涙、と申しましてね。人形の涙は凝って玉になるのです」
 「…眠ってるのに」
 花は人形をしげしげと見た。
 白い肌に映える青磁色の衣を着た人形は、とても整った顔をしていた。先程まで見ていた少女たちとは違い、ほの紅い口元が少年に独特な色香を与えている。脇には琵琶が立てかけてある。
 「戻って参りました人形でございましてね。」
 「戻って?」
 「はい。ごく初期の奏でるタイプなのでございますが、ご購入いただいた方が不慮の事故でお亡くなりになり、ご遺族がこの店に戻されたのですよ。メンテナンスは済ませておりますが、何故かこうして時々、泣くのです。他の人形たちはミルクの時間になると目覚めるものでございますのに、この人形だけは眠りについたまま、泣くままなのです。しかしこの『天国の涙』は極上の環境で慈しみはぐくまれた人形だけが流すものでございますのでね…」
 花はしゃがみこんで人形を見つめた。
 この子には、前の持ち主の思い出だけが糧なのか。思い出は痛いはずなのに、彼にとってはそれだけがこの世でいちばん甘いものなのかもしれない。
 「大事なものって、人形も一緒なのかな」
 白い頬に触ると柔らかだがひんやりとしている。手のひらの「涙」は、白かった。
 「このあいだ降った雪みたいに、ずっと見つめていたら吸い込まれてしまうような気がするのかな」
 この土地では滅多に降らないそれを、このあいだ花は初めて見た。もちろん、雪や雨が降るしくみは習っているからなんの不思議もないはずなのに、それが本当に天から降るものなのか信じられず、いつまでも見つめていた。あんな風に、音もなく降るたくさんのものがこの子のなかに溢れているのだろうか。
 ふ、と人形の瞼が動き、ゆっくりと目が開いた。薄藍の瞳がこちらを見返している。
 花はあとあとまで、この時のことをよく覚えていた。
 世界が一瞬透き通ったように思った。自分がその子のなかに入ったような気がした。
 人形が瞬きをして、花は我に返った。
 「きゃあっっ!」
 飛び退る花を、店主はがっちりと掴まえた。
 「おやおや、危ない」
 「目、目…目、あいた!!」
 「開きましたねえ」
 店主は楽しげに言った。
 「あ、あいたらどうなるんでしたっけ?」
 「人形がお客様を選んだ、のでございます。」
 「選んだ? …っ!」
 人形はいつの間にか立ち上がり、花の制服のスカートを握って一心に彼女を見つめている。
 「うごいた!!」
 「はい。選びましたから。こうなってしまいますと、気に入った方以外には目もくれなくなります。枯れるだけになりますねえ」
 スカートを握っていないほうの手を、人形は花に差し出している。花は、胸元で色が白くなるほど握りしめていた手をこわごわと解いた。ゆっくりゆっくり、それが熱いヤカンであるかのように手を伸ばす。指が触れあった途端、人形は花の中指をその手で握り、笑った。手は革に似て滑らかで、磁器のように冷たくない。ほの白く輝いてさえ見える。
 しばらく花はその子と見つめ合っていた。そうして、制服のポケットから携帯電話を出した。一番目に登録されている番号を掛ける。
 『はーい』
 企業の社長という立場で忙しいはずなのに、自分の電話にはいつも待ち構えていたのかと思う早さで出るのだ、この叔父は。
 『今日も可愛いだろうねー、俺の花ちゃんは』
 「おじさま。」
 花は、いつもならかまう彼の軽口にもつきあわず、意を決して呼びかけた。
 『ん?』
 「一生のお願いがあるの。」
 電話の向こうで、楽しそうに彼が笑った。
 『なんだい? バージンロードを花嫁の父として一緒に歩く以外なら頼まれるよ』
 「観用人形を、買って欲しいの」
 噛みしめるように言うと、口笛が聞こえた。
 『いいよ。』
 花は慌てて電話を見た。
 「すごく高価なのよ? 知ってるよね?」
 『勿論。いいよ、これから迎えに行ってあげる。その子も連れてとりあえずうちにおいで。あの子たちは物持ちだからね、花ちゃんのアパートに入りきらないかもしれない。今日はうちにお泊まり。いいよね?』
 「…いい、の?」
 『言ったでしょ、花嫁の父以外なら頼まれる、って。じゃあね』
 切れた電話を花はつくづく見つめた。
 「あの、この子の名前は」
 「いちおう名はございますが、お気に召したものをお客様がおつけ下さってもかまいません。…琵琶を奏でる子でございますので、いにしえの名人にあやかって公瑾、と申します」
 「こうきん…」
 花は人形を見た。目があった彼は、またにっこりと笑った。
 …あたりの空気が一気に明るくなった気が、した。
 「お買い上げ、ありがとうございます」
 店主の声が、とても遠くに聞こえた。


 
 
 
(二)


 観用人形は、花に凭れて膝の上に座っている。時折、花がそこにいるかどうかを確かめるように振り向くので、花は微笑んでみせた。そうすると、人形は安心したようにちょっとだけ唇の端を上げた。
 「おじさま、まだ来ないな…」
 花は揺すり上げるように人形を抱き直した。人形が不思議そうにまた彼女を振り返るので、花はその髪を指で梳いた。ひとの髪のようだけれども、それよりもっと柔らかでさらさらとしたそれは、春雨が凝ったように思われた。
 そのとき、おもてから、耳に馴染んだ車のエンジン音が聞こえた。店のドアが大きく開かれて冷気がさっと入る。
 「花ちゃん、お待たせ!」
 花の若いおじの、孟徳が笑って手を挙げた。
 「おじさま、すみません、来て貰って」
 花は頭を下げた。なぜか入り口から動かない孟徳に、もう一度、おじさま、と呼ぶと、彼は芝居がかった仕草で、その場に崩れ落ちた。
 「観用人形って…オトコ!?」
 「え、ええ」
 「花ちゃんに、俺以外のオトコができるなんてっ」
 「おじさま!」
 真っ赤になって叫んだ花に怯えたように人形が身震いしたので、花は慌てて人形の髪を撫でた。
 
 
 孟徳が手を伸ばして人形を撫でようとすると、人形は花にしがみついた。孟徳が目を眇めた。
 「お前…花ちゃんの胸に顔を埋めやがって」
 「おじさまってば」
 「ねえ花ちゃん、本当にこいつでないとダメなの?」
 花は小首を傾げて人形を見下ろした。花にしがみついたままの彼は、ぴくりともしない。
 「わたしは、選ばれただけだから」
 この子に見つめられた瞬間の、あの落ちていくような昇っていくような感じ。あれはいったい何だったんだろう。
 孟徳が、盛大にため息をついた。卓に突っ伏してじめじめと呟く。
 「俺の最大の商売敵がさあ」
 「ええと、劉…さん、だっけ?」
 「うん、そう。そいつがプランツ持ってて、ナニゲに自慢してくるんだよね。俺も何度か来たけど、誰も目覚めた子はいない。だから、花ちゃんがプランツを目覚めさせたって電話してくれた時、すごく嬉しかったんだよね。可愛い子がもうひとり増える! って。…でも、オトコ…」
 「おじさまが嫌なら、わたし…」
 「ああ違う!」
 孟徳は勢いよく顔を上げた。
 「俺に会わない、とか言う気じゃないよね!? それはダメだよ! 花ちゃんは俺が育てたんだから!」
 そう言われるといつもなら、娘らしい潔癖と反抗心が先に立っていたが、今日の孟徳にからかうような調子はなかった。だから花は口ごもった。
 「それは…その…」
 「泣き止まない花ちゃんをおんぶして部屋の中をまわったり、ミルクあげたりしたのは俺だよ! いまのアパートに一人暮らししたい、っていうのだって、うちからあの距離じゃなきゃ許さなかったよ。」
 生後すぐ、事故で両親と死に別れた花は孟徳の家に引き取られ、育てられた。だから花は、この若いおじを兄とも親とも思っている。その彼が渋るのを見るのは嫌だった。
 「それはそうだけど…」
 孟徳はまた息をついて、花にしがみついている人形をじっと見た。そうしてやおら、その後頭部を軽くつついた。人形がびくりとする。その背を反射的に強く抱いて、花は孟徳を見た。
 彼は滲むように苦笑していた。
 「分かってるよ。分かってるんだよ。この子も、手を握ったろう? それが唯一の繋がりであるかのように手を握ったろう? 君もそうだったよ、花ちゃん。誰があやしても、美味しいご飯を食べさせても、絹のゆりかごで揺らしても泣き止まない君が、俺の指を手で握ると泣き止むんだ。笑ったんだ。俺はそれが、それだけが嬉しかったんだ。」
 孟徳は立ち上がり、花の膝の上から人形を抱え上げた。じたばた暴れる人形に、真顔になる。
 「お前。花ちゃんを泣かせないと約束しろ。」
 それは花が聞いたことのない声だった。きっと仕事のときはこんな声を出すこともあるのだろう、と彼女は思った。人形に、泣かせる泣かせないなんて不思議なことを誓わせるおじさま、と花は微笑んだ。
 人形は、ぴたりと暴れるのをやめた。おそるおそる、というふうに顔を上げた人形は孟徳をじっと見た。
 それは何秒、という短い時間だったろう。花には何の変化も分からなかったが、唐突に孟徳は大きく頷くと、まるで荷物を抱えるように人形を片手で横抱きにして花に手を差し出した。
 「帰ろう、花ちゃん」
 花は笑った。
 「はい!」
 その手を握ると、孟徳はふっと笑った。花がいちばん好きな、明るい笑顔だった。
 また暴れ出した人形をものともせず、孟徳は車に乗せた。花が車に乗るなり、人形は花の膝の上に慌ただしく乗り、強くしがみついてきた。
 「もう大丈夫だよ」
 外で、店主と話をしている孟徳を見ながら、花は小さな耳に囁いた。人形が花を見上げる。そうして、目の醒めるような鮮やかさで笑った。
 あたたかい、と花は感じた。その気持ちのまま彼を抱きしめると、小さな腕が花を抱いた。
 「…公瑾くん」
 囁くと、彼はうふふ、というような吐息を漏らした。
 「わたしはね、花だよ。は・な」
 小さな唇が、花のことばを真似るように動く。それを見ながら、花はどうしてこんなに幸せなんだろうと思った。孟徳が名前を呼んでくれる時のように、心を羽でかすかに撫でられるようなくすぐったさではない、もっと直接的な何か。
 「公瑾くん」
 人形はまた笑って、まるでここだけが居場所のように、花の胸に深くもたれた。そうして花が自分を抱くように琵琶を抱いた。
 
 
 孟徳は人形と笑いあう花を見て、深いため息をついた。謎めいた微笑をうかべたままの店主を見る。
 「花ちゃんに教えるなよ。」
 「何をでございましょう」
 「プランツは育つ、ってことだ」
 店主は恭しく頭を下げた。
 「失礼ではございますが、さきほどのお話に出たお名前を記憶しております。」
 孟徳はさらに唇を曲げた。
 「ああそうだ。あいつは、育ったプランツを妻にした。」
 「それをご存じなほどお近い間柄なれば、お嬢様のお耳にも入るのではございませんか?」
 孟徳は自分の髪を手荒にかき回した。
 「あいつは別に近くない!」
 「さようでございますか」
 「それと、いつもなら特別の衣装やら化粧水やらミルクが要るんだろうけどな、あの子は本体以上のものは買わない。」
 凄むような孟徳の口調にも、店主の微笑は変わらなかった。
 「畏まりました」
 ふん、と孟徳は嗤って車のドアを開けた。
 頭を下げる店主の前を、車が出て行く。それが角を曲がって見えなくなると、店主はゆっくりと店に戻った。後ろ手に扉を閉める。
 「お嬢様こそが、それを埋めて下さいますでしょう。」
 呟きは、眠る人形たちだけが聞いていた。

(三)

 
 
 
 孟徳が玄関に立つと、扉は内側から開いた。
 「おかえりなさい。――あら」
 柔らかな声で出迎えたのは、この邸の女主人だった。花は頭を下げた。
 「こんばんわ」
 「こんばんわ、お久しぶりね。可愛いひとが可愛い子をつれて」
 ほほ、と笑う声は温かい。
 孟徳は戸籍上の妻がいない。ずいぶん浮き名を流しているらしいが、花が知る限り、この邸宅をずっと取り仕切っているのはこの婦人だった。少し目尻の下がった、いつも微笑んでいるような顔立ちに静かな物言いが常のこの女性には、花もとても良くして貰っている。広告も打たないし顧客は紹介でしか受け付けないという、高校生の彼女には見当もつかないほど高額のエステサロンを営んでいて、それがたいそう繁盛しているのだそうだ。
 女性はゆっくり膝をついて、公瑾と目線を合わせた。
 「いらっしゃい、王子さま」
 観用人形は、婦人と目が会うと慌てて花の足の後ろに隠れた。
 「俺の花ちゃんが選んだのはオトコのプランツだよ、まったく」
 婦人は仰々しくぼやく孟徳に宥めるような笑みを向けた。
 「観用人形にまで嫉妬?」
 「おかげで花ちゃんの手はそいつに独占されたままだしね」
 孟徳は大きく肩を竦めてさっさと邸宅に入っていく。婦人は花をいざなうように躰を横にずらした。花は公瑾の手を握り、不安そうに見つめてくる観用人形に、安心させるように笑って見せた。
 
 
 花が化学実験のように緊張して人肌に温めたミルクを飲んだ観用人形は、とても幸せそうに笑った。思わず、自分までお腹いっぱいになってしまうような笑顔だった。
 そうして観用人形は、夕食後、宿題をする花の背に凭れ、うとうとしている。
 「わたしのお店にも、観用人形を連れた方がいらっしゃるわ」
 女王然としてソファに座った婦人がゆっくりと言った。花は顔を上げた。
 「やっぱり女の子ですか?」
 まるで仏像のように頬に指を添え、婦人は頷いた。
 「そうね。とても満ち足りた子たち。」
 「ふうん…」
 「その子もいずれそうなるのかしら」
 花は首をねじって公瑾を見た。彼がその視線に気づいたのか、目をこすって花を見上げる。花は微笑み返して婦人を見た。
 「実は、お願いがあるんです」
 「あのひとが怒らないようなこと?」
 婦人がくすりと笑った。
 「わたしが学校に行っているあいだ、この子を預かって貰えないでしょうか。」
 「もちろん、それくらいは構わないわ」
 鷹揚に頷いた婦人に安堵する。しかし、観用人形がきつく花の上着を引っ張ったので、彼女は慌てて彼を見た。花はどこか不安そうな彼を膝の上に乗せた。
 「わたしね、昼間は学校に行かなくちゃいけないの。だから、ここの人たちと仲良くしてね。夕方には迎えに来るから」
 言うと、観用人形はまるでほんとうの別れを聞かされたように顔をくしゃくしゃに歪めた。花は慌てて小さな頭を抱き込んだ。
 「お昼のあいだだけなんだよ。ちゃんと迎えに来る」
 人形は頷かず、この小さな手のどこにそんな力があるのかと思うほど強く、上着が握られる。花は困って婦人を見た。しかしそのひとは微笑んだまま、何も言ってくれない。花は小さい手に手を重ねた。
 「公瑾くん。ね、ちゃんとわたし、帰ってくるから。本当に本当よ」
 おずおずと見上げてきた公瑾は、花の唇に手を触れた。花はもう一度、「帰ってくるから」と言った。公瑾はその手をそっと自分の唇にあててから、花の首にしがみついた。
 「こわいおもいをしたのね」
 婦人が言う。いつもこのひとは見透かしたようだ、と花は公瑾の髪を撫でながら思った。
 
 
 花は目を覚ました。まだ部屋は暗い。
 目の前では、昨日手に入れたばかりの人形が眠っている。
 一緒に寝るのが当然のように花と手を繋いでいた少年を、孟徳は引きはがした。その途端、孟徳を振り回すように暴れ出した人形を見て、婦人が割って入ってくれた。お諦めなさいな、と言われて膨れる孟徳は、彼こそ子どもの人形のようだった。花はうっすら苦笑した。いつも困ったおじさまだ。
 人形が眠るというのは不思議だけれど、すうすうと寝息が聞こえるから確かに眠っているのだろう。花は少年の枕元を撫でたが、何も指に引っかからなかった。あの店で「待っていた」時のように、天国の涙は零れていない。彼女はほっとした。
 寂しくないといい。わたしの大丈夫、を体中で覚えようとした人形が信じてくれるといい。
 ちゃんと帰ってくるよ。そう思ったその時を知るかのように、人形が花の胸元にすり寄った。花は微笑って目を閉じた。

(四) 

 椅子に立ったきり動かない観用人形に、執事はため息をついた。
 朝、学校に行く花を今にも泣きそうな顔で門まで見送った観用人形は、女あるじに伴われて居間に戻ってきた。
 孟徳が休日の館は、静まりかえっている。あるじが心置きなく寝坊するためだ。女あるじも孟徳の休みに合わせたのか、居間でゆったりと音楽を聴いている。その隅で、大人用の椅子に立ち窓にへばりついている観用人形はいかにも異質だった。そこだけ空気が張り詰めている。
 女あるじは、放っておきなさいなと微笑した。観用人形とはそういうものよ、と言う。
 執事は、以前に勤めていた館で観用人形の世話をしたことがある。美少女ばかり三体、あるじの気質を反映したのかおっとりとした子ばかりで、あるじの留守には三体で集まって人形遊びなどに興じていた。あるじが身代を失い彼が解雇されてからどうなったろうと眉をひそめかけ、何も知らないことに気づいた。木漏れ日のように清浄な彼女たちは、今も誰かの館で微笑んでいるのだろうか。あるじの親族たちの遺産争いさえ知らぬげに人形を抱いていた姿のまま。
 この家の「姫」であった花と親しいメイドは、観用人形が旧主を失って戻された存在だと噂していた。そういう存在を花が連れ帰ったということで、観用人形は興味津々の視線が注がれていたが、観用人形は椅子に座ったきり微動だにしない。選んだ相手以外には笑顔を見せないものよと女あるじが言っていたが、それにしてもかたくなだ。
 執事は軽く咳払いをした。
 「なぜ、そこにいるのです。部屋でお待ちになればよろしい」
 観用人形の唇がぴく、と動いた。少年は視線を上げ、窓の外を指さした。執事は窓に寄ってみた。
 広大な庭とその向こうに見える門が曇り空にも鮮やかだ。限られた狭い土地を有効利用するためにビルが立ち並ぶこの街で、古い高層ビルをいくつも買い取って更地にし、視界に入るビルを減らして建てられたといういにしえの帝王のような逸話がある館だが、この眺めと孟徳を見ていると、あながち嘘でもない気がしてくる。
 「門を見ていたいのですか」
 観用人形の頭がかすかに動いた。執事は少し、考えた。
 今朝の愁嘆からすると、この様子は毎日繰り返されかねない。観用人形には気の毒だが、ここは家族が寛ぐ場所だ。
 「この場所の窓はあなたの背丈からは高すぎる。あなたが無理のない姿勢で門を見ていられる部屋がありますが、そちらにおいでになりますか」
 観用人形の目が丸くなった。彼は椅子から転がり落ちるように飛び降りると、執事を見上げた。執事は頭を下げた。
 「では、ご案内いたします」
 観用人形は大きく頷いた。
 エントランスから階段を上がる。花の部屋が割り当てられた二階を過ぎる。それより上に部屋はないが、階段だけは伸びていた。四階分の高さまで上がり、つきあたりの小さな扉を開ける。
 ごく小さい部屋だった。古い意匠の椅子が二脚とテーブルがあるだけの殺風景な部屋だが、正面の壁はステンドグラスがはめ込まれている。具体的なかたちは何も無いが、様々な色合いの青がちりばめられた、海に満ちた部屋だった。途方に暮れたように立ち尽くしている観用人形を促し、執事は椅子を窓に寄せた。
 「ご覧なさい。ちょうどここだけ、色がない」
 椅子に座った観用人形の高さに、ひとつだけ色を付けていない硝子片が埋め込まれている。のぞき込んだ観用人形は、ぱあっと顔を綻ばせて執事を見上げた。執事は制服のポケットから大ぶりの鍵を取り出した。宝箱とか、お城とかいう言葉に似合う、古風な真鍮の鍵だ。
 「もしあなたが、ひとりで鍵を開け、閉めることができるなら、これをさしあげます。」
 観用人形は扉と鍵を何度も見比べ、大きく頷いた。執事は小さい手のひらにそれを落とした。
 「管理できないことが分かったら、この鍵は取り上げます。宜しいですね」
 観用人形は鍵を握りしめ、頷いた。
 執事は部屋を出るとき、振り返った。窓から視線を外さないまま座っているその姿は、もうずっと昔からそのままのような気がした。
 …実を言えば、あそこは孟徳から自由にしていいと言われた空間だった。なぜあんな空間を作ろうとしたのかは語らない。だがいわゆる秘密部屋、というものは幾つになっても惹きつけられるものだ。そして孟徳が執事にあの部屋を与えた理由も分からなかったが、彼なりに愛着のある家具を備え、ひとりで休憩を取る時に使っていた。
 あの部屋は思い出を呼ぶ。その部屋で観用人形がどう過ごすのか。職業柄、他人を詮索することを己に厳しく律している彼らしくなく、気になって踊り場で振り向いた。だが、ひとつ首を振って、執事は静かに階段を下りていった。


(続)
(2012.4.4)

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