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芙蓉は書棚に大判の図鑑を戻した。近くに脚立が見当たらなかったので背伸びをして無理に入れれば、静かな図書室にがたん、と意外に大きな音が響く。後ろのほうで、課題だろう、床に座り込んで漢詩集を見ていたクラスメイトの広生が眉をしかめる。芙蓉は彼を振り向いて頭を下げた。
「…ごめんなさい」
広生は眼鏡の縁を押し上げた。
「珍しいな」
あなたがカンに触るのよと唇を尖らし、いつもつっかかるような言い方をする芙蓉が素直だったから、彼もそう言ったのだろう。芙蓉は柳眉を逆立てたが大きく息をついて言い返さなかった。その様子に、彼はあからさまに怪訝そうにした。
「具合でも悪いのか」
「…あなたねえ」
「山田のことか」
広生が少し振り向いた。図書室の窓際の席には、参考書を開いたままぼうっと頬杖をついている花がいた。そういう生徒は放課後の図書室では珍しくない。だが、花には珍しかった。
「ええ、そう」
軽いため息とともに、芙蓉が言った。広生が本に目を戻しながら息のように言う。
「具合は悪くなさそうだが」
「そんなことなら文若さんが家から出さないわよ。そうじゃないの」
「そうか」
芙蓉は髪を一房、人差し指に巻いた。子どもっぽいから止めたいと思う癖だ。
「花は、会った時から変わらないのよ。文若さんを知ってからは、花は、文若さんの作るお菓子みたいだと思うわ。」
無言で広生が、かさりとページをめくった。掲載された樹下美人図は、経年変化の薄茶のページの中で、戸惑って見えた。
「高校生なんだもの、ちょっとばかり迂闊でも可愛いじゃない? でも花は、それが許せないのね。」
「迂闊なのを褒められて嬉しい高校生なんかいるか?」
「じじむさい言い方」
「軽々しく友人の内情を話しているとは思わないのか」
淡々とページをめくる広生の横顔に、芙蓉は瞬きした。眼鏡が嫌みなくらいぴかぴかだと彼女は思った。
「あなたは陰気だけど礼儀はわきまえているわ。だから話しているんじゃない」
広生がちらと目を上げる。微笑っているように見えたので、芙蓉は唇をきつく、への字に曲げた。それから、長い息をついた。
そんなこと、この男に指摘されなくても分かっている。ただ自分は、花が羨ましい。
自分も夢があるけれど、花はもう自分を実現させているように見える。しかし彼女の義兄は、それが違うと言っているようだ。同じ場所にいるのに違うことを言うふたりの齟齬を上手に表現できないのがもどかしくてならない。
「どういう店にしたいのか、って聞かれたんですって。それきり、あの有様」
棚に寄りかかる芙蓉に、広生は本から目を上げた。花の背中と芙蓉の渋面を見比べ、また本に目を戻す。
「そんな怖い顔をしているから、花が相談しに来ないんじゃないのか」
「そういうわけじゃないわよ!」
思わず声を高くした芙蓉は、花が振り返る前に口元を押さえてしゃがみこんだ。花は振り返ったようだったが、首を傾げながら元の体勢になる。図書室には、乾いた沈黙が戻った。
「そういうわけじゃない。絶対、そんなことない。相談されたいだなんて、そんな浅ましいこと思ってない」
力を込めて言う芙蓉に、広生が目を眇めた。
「ここで俺に言っているのはどうなんだ」
芙蓉は、唇を何度か舐めた。
「…自分が嫌だからよ」
広生はまた、ページを繰る作業に戻った。当てがあるのかないのか、ぼんやりめくっているようにしか見えない。そう考える自分がまた、嫌だ。
「そういうときもあるだろう」
「そんなの分かってるわよ。」
「夏が終わったところだ。」
なによそれは、と言おうとして、芙蓉は窓を振り返った。図書室からの眺めなど見慣れているはずなのに、この角度だと空しか見えない。ずいぶん前に通ったのだろう、薄雲にしか見えない飛行機雲がだらだら伸びている。
「…あなたいつも、このあたりにいるわね」
「そうかもしれない」
「空しか見えなくてつまらない」
「そうか」
声は相変わらず静かだし、視線も芙蓉に向けられない。
芙蓉は瞬きして広生を見返した。
「ねえ、ずいぶん久しぶりに長いこと話している気がするけど」
「…芙蓉と話すといつも長くなっている気がするのは俺だけか」
それが明らかにむっとした口調だったので、芙蓉は少し慌てた。クラスメイトが苦笑して止めに入る埒もない言い争いをつい、この男にはしてしまう。
「そうじゃないわ、でも…そうね、そうかしら」
「どっちなんだ」
「とにかく、花よ。」
「それならいい加減、彼女に声を掛けてやったらどうだ。図書室が閉まる」
「え? あら」
芙蓉は書棚ごしに時計を探した。彼が指摘したとおり、斜陽に見づらくなった時計は閉館時間が間近なことを伝えている。よく見れば、カウンタの向こうの図書委員の姿も慌ただしい。三つ編みの下級生が古びたブックトラックを鳴らしながら移動していく。
「いけない。今日はお店に行くんだった」
芙蓉は機敏に立ち上がった。その動きで気づいたのか、花も時計を見上げて背を伸ばす。書棚を抜ける際に振り返ると、最初から芙蓉が居なかったかのように、広生は落ち着いて本をめくっていた。ページには、霧に包まれた緑色の川の写真がある。細長い船には笠を被った人間が乗って、どこへともなく櫂を操っている。
絵に囲まれて育てられた王が、現実が絵ほど美しくないのを憎み、描いた絵師を首斬らせる話を読んだことがある。絵師に先んじて殺された弟子によって彼は何処かへ船出する。そのの話を最初に読んだ時、水脈を王の傍らで見るように思い、芙蓉は、絶望というにはずいぶん甘い感情を覚えた。
いま、書棚の埃を制服の端に付けて活字を追っている彼にそれを語りたい気もした。その横顔の怜悧さに、芙蓉は初めて気づいたように思ったからだ。けれど、そんな思いは彼が見ている写真の所為だろう。
彼女はまた唇を曲げ、そこから無理矢理視線を引き離すようにして花へと歩き出した。
(続。)
(2012.1.12)
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