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扉を叩く音に、花は我に返った。夜に相応しく、落ち着いた声で侍女が夫の帰宅を告げる。出迎えようと立ち上がると、公瑾が大きく扉を開いて入ってきた。
「公瑾さん」
夜露のかかった外套を侍女に渡しながら、公瑾は花を見て少し唇の端を上げた。
「帰りました」
「お帰りなさい」
花が微笑うと、夫の笑みがふっと緩んだ。いそいそ、という形容が相応しい仕草で花を抱きしめる。
「帰りました」
「はい、お疲れ様です。」
「今日は少し飛ばしましたからね…おや」
公瑾の声が低くなり、その腕の力が緩んだ。
「夜は窓を閉めておくように言ったのに、また開けておいたのですか? 風邪を引いても知りませんよ」
「月を見ていたんです。秋も終わりですね」
呑気に言うと、公瑾がこれ見よがしにため息をついた。花の全身をすばやく見回す。
「わたしの贈った羽織を着ていますね、結構。それならば風邪を引くことも減るでしょうからね」
「はい。出かける時もちゃんと着てます」
最初、公瑾は温かいからとずいぶん重い羽織を寄越した。けれどその重さに花が敬遠する表情をちらと浮かべたのを目ざとく見とがめ、次の日には別のものを持ってきた。それがこれだ。まるで羽衣のよう、というのはこういう物かもしれない。手触りが良く温かい。手放さなくなった花に、公瑾は満足そうに笑ったものだ。
食事は済ませた、という彼と並んで椅子に座る。
「今日は喬姉妹と出かけていたのでしたね。」
「はい」
さわ、と風が吹き込んで花は顔を上げた。そうだ、煌々とした月を見ていたのだった。公瑾のようだ。昼間、陽を見て彼みたいと思ったのにと、花は少し笑った。窓を閉めようと立ち上がった花の手を公瑾が掴んで抱き寄せる。
「南の野原でしたか。あんな広大なだけの場所に行って何か楽しかったですか?」
「楽しかったですよ? 海みたいでした」
黄金色の野原を思い出して花は眼を細めた。公瑾もそれを真似したような表情を浮かべた。
「あなたは海を見たことがあるのでしたね。さて…似ていましたか?」
「はい」
白い陽の下で、姉妹と彼女たちに近しい護衛の武将に、風が鳴る野原で海の話をして過ごした。そうすると、風鳴りは余計に潮騒に聞こえる。小さい頃に初めて海鳴りを聞いた時に高速道路の音かと思ったなと、彼女たちには通じない思い出も胸を掠めた。それを言うと、公瑾は緩やかに頷きながら聞いていた。他愛ない話なのに公瑾が和らいでいるのが不思議だ。
「もう季節的に厳しいですが、波が穏やかな季節ならあなたを海に連れて行ってもいいかもしれない。あなたは船酔いしませんが、風が厳しいですし」
「行きたいです! 公瑾さんの知ってる海はわたし、見たことないですから」
夫は少し虚を突かれたような表情を浮かべたが、ほっとしたように笑って頷いた。まだともに働いてはいるが、家に戻って見る夫の表情は特別好きだ。
「それで、あとは何がありましたか」
「うーん…あ、大喬さんが持って来たお昼ごはんが美味しかったです。お返しを作りたいので、次のお休みには厨房に籠もろうかと」
「わたしにも作ってください」
「味見をお願いします」
すかさず言った公瑾に姿勢を正して花が軽く頭を下げると、彼はくすりと笑った。
「喜んで」
帰宅直後よりは柔らかになった夫の表情に、花は嬉しくなった。公瑾の眉間の皺を増やしたり、ため息をつかせるよりはずっといい。「思いだし笑い」より「思い出しため息」という言葉を考えてしまうこの頃だ。公瑾は自分より物覚えがいいから、それが多いだろう。それが己の記憶に繋がらないことを祈るばかりだ。なにしろ、自分にその気がなくても公瑾にため息をつかせてしまうことが多い。ため息をつくと幸せが逃げるという、母がよく言っていた言葉を鵜呑みにしたわけではないが、信じたい気分の時もある。
湯を使って来ますと公瑾が言ったのをしおに立ち上がる。褥をともにしていても彼の体を拭いたりするのにはまだ躊躇があるので、花は先に床に入った。
遠くで風が鳴っている。昼間の風ではないだろうに潮の香がするようだ。公瑾を待っていたいなと思いながらも、それに撫でられて気持ちが落ち着く。ああこれは公瑾の手かもしれないと微笑い、花は眠りに落ちた。
(終。)
(2011.11.15)
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