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かたわらの籠の中にいる赤子があうう、と小さな声をあげたので、公瑾は読んでいた簡をおいて赤子を見下ろした。
「どうしました?」
花によれば、このくらいの赤子はまだ目がよく見えないらしい。だが、彼が振る指先に合わせて視線が動くので、そんなことはないはずだ。見えない、のではなく、見ているものが分からないという意味だろう。
赤子は指先をむにゃむにゃと動かしている。彼は微笑した。
「お前は、夜は泣くくせに昼は大人しい。」
昨夜もずいぶん泣いて、花があやしていた。少し離れた寝室に寝ていてもよく聞こえる。
彼は腕を伸ばして赤子を抱きあげた。とらえどころのない柔らかさの、しかししっとりと重い赤子は、彼がゆっくりゆするとふにゃふにゃと笑った。こんなところを見たら、子をあやすしぐさがすっかり板につきましたねとまた花は笑うのだろう。
彼女に限らず、「あちら」の世界では一家に子はせいぜいが二、三人という。花も、弟がひとりいただけと聞いた。彼は己の兄妹に限らず親戚も子が多かったので、子をあやすくらいは何ともない。ただ、己の子であるから、きっと子どものうちよりは手つきも優しいだろう。実際、自分が抱き上げると泣きやむことが多いらしい。公瑾のほうが手のひらが大きいから安心なんじゃないですかと妻は笑う。
「早く大きく、丈夫になりなさい」
柔らかい頬を指でくすぐって言うと、赤子はきゃ、きゃ、と笑った。そうすれば己も一喜一憂しなくていいし、いまは子と一緒に寝ている妻も己の寝台に戻る。
その時、扉がそうっとあいて、花が顔をのぞかせた。彼をみとめて笑った彼女は小走りに近づき、赤子を覗き込むとさらに嬉しそうに笑った。
「おとうさんが大好きですよね、ご機嫌」
本当に安心したような笑顔につられ、口元が緩む。
「新年の準備は進んでいますか」
花は大きく頷いた。
「侍女さんたちはみんな心得てるから、わたしは頷いてるくらいです。大丈夫」
公瑾は少し怖い顔をつくった。
「あなたが差配すべきところですよ。きちんと学んでいるのでしょうね」
とたんに花は真面目な顔になって袂から小さな簡を取り出した。
「虎の巻です!」
「…なんですって?」
「家令さんの奥さんが書いてくれたんです。これに沿って準備していけば大丈夫ですよ、って。これを見ながらやってます」
彼は小さく息をついた。
「この邸の家人はまったく優秀だ」
「公瑾さんが雇ってきただけありますね」
にこにこと花は肯った。彼女を邪慳にしようものなら己が即刻解雇するだろうから当然といえば当然なのだが、花は公瑾の妻としてきちんと立てられている。この世界の娘としては実におぼつかない彼女だが、どうも、己が選んだ娘ということで一目も二目も置かれたようだ。これは己のか、それとも妻の人徳か、深く考えるとなにやら不愉快なことになりそうで、ずいぶん昔に考えるのを止めた。彼女が不思議とひとのこころを掴むのは変わらない。
扉が控えめに叩かれ、花はぱっと顔をそちらに向けた。家令の妻が顔をのぞかせ、公瑾に深く礼をする。花は戸口にむかいながら、「すぐに戻ります!」とせわしなく言って部屋を出た。
あう、と赤子がまた何か言う。公瑾は苦笑して軽く子をゆらした。
「母様はしばらく戻らぬでしょう、お前も寝なさい」
不思議にその声が聞こえたように、赤子は目を閉じた。かごに戻してもかすかな寝息をたてているのを、妻に自慢してやろうかと思う。
公瑾は乳母を呼んであとを託すと部屋を出た。花と、己の命を継いだこの子がこの世に来て最初の新年、なにか特別なことをするわけではないけれど、邸のうちの華やぎまでは押さえようがない。それゆえに、遺漏がないか確認せねばならぬ。
己は命をつなぐつもりはなかった。けれど花がくれたものを零すわけもない。花が愛しいように、それにかかわるすべてがもはや己なのだから。
おんなたちのにぎやかな声が漏れる部屋へ、彼はゆったりと歩きだした。
(2012.12.21)
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