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娘が叫ぶ声が遠くから聞こえた。今日は兄が遊んでくれているのでずいぶん張り切っていて、大きな声だ。花が教えた遊びだった。
だるまさんとは何かと説明するところから始めなければならず、挙げ句の果てには夫にまで根掘り葉掘り聞かれる羽目になったが、この家ではすっかり定着した。近頃は近所にも広がっているらしい。元の世界のことはあまり言うまいとしていたが、子らが笑うならばいいと思ってしまう。ちなみに娘がいちばん好きな遊びは、父親と「おにさんこちら」をすることだが、優秀な武人であるところの父には目隠ししたところで本来、まるで効果はない。しかし、それに付き合って部屋中引っ張り回されている公瑾を見ると、娘相手だとずいぶん忍耐強いなあと、花は思う。
公瑾が、見ていた楽譜を置いた。珍しく紙に書かせたそれはきれいな絵が四隅に描いてある。楽の情景を表したものらしい。いつもは演奏させて覚えるひとが珍しい。彼はぬるくなった茶を口にふくみ、子どもたちの声が聞こえるほうを見た。
「楽しそうですね」
表情は和んでいて、花は嬉しくなった。彼の休日は一日でも長いほうがいい。このところ、夜中に大風が吹いたりしてずいぶん寝られなかったようだ。
「ええ。久しぶりのいいお天気ですから。父様もあとで混ざってはいかがでしょうか」
冗談っぽく言うと、公瑾はくすりと笑った。
「ではあなたも一緒に。『かくれんぼ』以外でね。」
花は思わず、生ぬるく笑ってしまった。子らはかくれんぼが大好きだが、花が混ざった場合、そうもいかなくなる。花が率先していちばん凝ったところに隠れるので、娘は泣くし夫は笑顔が固まるしで、念を押されなくてもあまり参加したくない。
「ところで、花。娘は相変わらず、あの『亮くん』とやらと親しいのですか」
花は瞬きした。
「ええ。お兄ちゃんが勉学で忙しくなった時に仲良くしてくれた子ですからね。ずいぶん懐いていますよ」
「そうですか」
公瑾が思わせぶりに言葉を区切った。花は黙って茶を飲んだ。こういう時は待っていたほうが話してくれる。思ったとおり、公瑾は長い息をついた。
「何か、先方の家から話などありますか」
「話? 話って…えっと、道で会った時に、遊んで下さっている礼はしていますよ? おじいさん、いい方ですねー」
雰囲気や話し方が子敬に似ているのでつい親しみを覚える。公瑾の眉根が寄った。
「あちらの両親とは?」
「挨拶程度です。…あ、もしかして、縁談ですか」
息子が産まれたばかりの時に、そんな話があった世界だ。親の目にもまだころころ転がっているような年頃の娘にはそんな話も来たのだろうか。何と言っても周の家だ。そう思って夫をうかがうと、彼はゆるく首を横に振った。
「先頃、そのような話もありましたが、しばらく懸念はないでしょう。」
何かを思い出したように公瑾がうすらと笑ったので、花は思わずまじまじと彼の顔を見返した。彼がそう言うということは、娘に縁談を持ってきた相手がいるということだ。しかし、花が知っておかなければならないことはきちんと告げてくれる彼なので、本当に、しばらくは知らなくてもよいのだろう。いったい、何と言って撃退したのか知りたい気もするが、ここで突いて、この和やかな午後が台無しになるのは避けたい。
しばらくすると、小さい足音が聞こえてきた。そちらへ目を遣るより早く、息せき切って娘がかけてきた。
「とうさま!」
叫ぶなり、公瑾の足に体当たりするようにしがみつく。ちいさい額の汗をぬぐってやりながら、公瑾が笑った。
「どうしました」
「にいさま、来なかった?」
「来ていませんよ」
「にいさまってばずるいの! おおきいからてかげんしてくれていいの!」
「あら、このあいだ、お兄ちゃんが追いかけっこで手加減したら、ばかにしないでって怒ったでしょう」
花がからかうと、娘はきっと母を振り向いた。
「ときとばあいによるもの!」
堪えきれなくなって花が笑い出すと、公瑾も小さく笑って娘を抱え上げた。娘は公瑾の膝の上に立って、ちいさく地団駄を踏んだ。
「亮くんはやさしいのに」
夫の表情がすっと変わった。
「『亮くん』とは仲良くしていますか」
「うん」
娘の笑顔が倍ほどになったが、すぐにそれがしぼんだ。
「どうしました?」
「とうさま、にいさまったらひどいの。亮くんのおよめさんになる、って言ったら、そんなことできるわけないだろうっていうの。ひどいの!」
口を曲げた顔は、我ながら自分によく似ている。花はぼんやりとそんなことを考えた。公瑾の指先がやさしく娘のほつれた髪を直している。
「お嫁さん、というのはどういうことか分かりますか?」
娘は、満面の笑みで頷いた。
「おきがえさせてあげたり、ごはんつくったり、いってらっしゃいのちゅうをしたり、とおくにおでかけのときはいっぱいおてがみかいたり、おやすみのひはひざまくらでおひるねしたりするのでしょ?」
花は思わず目を伏せた。よくもまあ、見ていることだ。公瑾の頬も引きつっている気がする。もっともあれは、かわいい娘がどこかの男とそういうことをするのを想像したせいだろう。
公瑾が小さく咳払いする。
「それだけではありません」
娘は、とたんに心配そうな顔になった。
「ちがうの…?」
「ええ。わたしと戦ってわたしを負かさないといけません」
「公瑾さん!」
声を上げた花を見向きもせず、公瑾は娘を真剣に見つめている。娘は心配げなまま、小首を傾げた。
「とうさまと、たたかうの?」
「ええ」
「公瑾さんったら!」
娘は俯いた。しばらくして彼女は、顔をあげて笑った。
「じゃあ、かあさまがよく言うみたいに、わたしがかわりにたたかうわ!」
朗らかに言い放った娘は、父の膝から降りた。ちょうどその場に姿を見せた兄を振り向く。
「亮が来たぞ」
娘は、わあ、と声を上げて駆け出していく。花は、公瑾をおそるおそる見た。果たして彼は、まっすぐ花を見ていた。近頃はまるで見たことがない、きれいな笑顔だった。
「花」
「はいっ」
「変わらぬあなたの気持ちはたいへんに嬉しく思いますよ」
そこに座りなさいと言われないだけましかしら、と花は思った。
(2012.5.1)
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