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いわゆる「死にネタ」ですので、お嫌いな方は続きに進みませんよう、お願い申し上げます。
わたしは白い花を持って丘を駆け上がっていた。早くしないと夜が来てしまう。今年いちばんに咲いたこの花を、おばあさまにお目に掛けたかった。おばあさまは、この花がお好きだった。
まもなく頂上、という時に、わたしの足は止まった。たたずむひとがゆっくり振り返り、よく通る声がわたしの名を呼ぶ。おかあさまが、おとうさまよりお好きだと言う、おじいさまのお声だ。
「おじいさま!」
老いてなお整ったおじいさまのお顔も、そのきれいな白い髪も夕日を浴びて紅く染まっている。近頃よく着ている深緑の衣が黒ずんで見えた。
わたしはおじいさまに駆け寄った。おじいさまは片膝をつくとその外套にわたしをくるんで顔を近づけた。
「どうしたのですか、このような時刻に」
「おばあさまに、これを差し上げたいと思いました」
わたしが差し出す花に、おじいさまは小さく笑った。
「花はそれが好きでしたね。覚えていてくれて嬉しいですよ」
おじいさまに褒められるのは、おとうさまに褒められるより嬉しい。わたしはそれをお墓の前に置いた。おじいさまが一歩下がって見守っている。
「もしや、折々に小さな花を供えていてくれたのはお前ですか」
「はい」
「礼を言います。彼女も寂しくないでしょう」
わたしはおじいさまを見上げた。おかしなことに、わたしはいまの言葉が、自分が寂しい、と言っているように聞こえたからだ。
でもわたしが何か言うより早く、おじいさまは近頃のわたしの勉強について細かくお尋ねになった。おじいさまは何でもご存じだから、うろたえたり口ごもったりすると叱られる。わたしが一生懸命答えると、おじいさまは満足そうに頷き、たいへんよろしい、と褒めてくださった。
「それでこそわたしの孫です。」
わたしはほっとした。おじいさま、と声を掛けると、細い目をより細めてわたしを見下ろした。
「おじいさまは、ここでおばあさまとお話しされていたのですか?」
おじいさまはちいさく笑い、何も言わずに空を見上げた。もう半分が濃い青に沈んだ空は、星が少し見えている。
おばあさまが亡くなってから、もう一年過ぎたと思う。流行り風邪だとお聞きした。おじいさまの落胆はとても大きく、ひと頃はお食事も召し上がらなかったと聞く。
「もう送りましょう。お前の母上に叱られてしまいます」
「おかあさまがおじいさまを叱るのですか?」
わたしはとても驚いた。おじいさまはくつくつと笑った。信じられない、と思う。おかあさまはいつも淑やかで、おとうさまにはお手本にするようにと常々言われている。
でもわたしは、久しぶりにふたりきりでお目にかかったおじいさまともう少し居たかった。おばあさまが亡くなってから、たまの出仕以外はほとんどお屋敷に籠もりきりでいらっしゃる。
「おじいさま、あの星、いちばん光っていますね」
夜の空を指すと、おじいさまは顔を上げた。
「ああ…花は星空も好きでしたね。星読みはちっとも上達しないのに、飽きなかった」
わたしは天に手を延べた。その時、後ろから抱き上げられる。
「すごい、おじいさま! 星が近いです」
「長江で遊ぶようでしょう」
おじいさまの言葉に目が眩む。川はどこまでも流れて、もういちど巡ってくるのだ。
「はい!」
「花もよくそうしていました」
「では露はおばあさまのお手から零れたものでしょうか」
「そうかもしれませんね。あれはそそっかしいところがあった。天でも手桶をひっくり返しているのかもしれない」
おじいさまがわたしを抱いたまま丘を下り始める。ゆるく揺られながら、わたしはいまのおじいさまの声を思い返した。そそっかしい、と言いながらそれが良いのだと笑っているようだった。
おじいさまの星はどれだろうと思った。いっとうきれいなあの星だろうか。きっとおばあさまが磨いて、お守りくださっているのだ。
…もうよくお顔も覚えていないおばあさま。
こうしておじいさまとお話すると必ずおばあさまのお話になるのです。おじいさまはどんなにおばあさまを愛しく思っておいでのことでしょう。お若い時は、どれほど睦まじくいらしたでしょう。わたしも、そういう方に巡り会えるでしょうか。仰いだ星は、まだわたしに何も話してはくれない。
「おじいさま、わたし、星読みを習ってみたいです」
「おや、軍師になりたいのですか?」
「軍師…は分かりませんけれど、知りたいことがたくさんあります」
「お前は利発だから、よい星読みになるでしょう。血を流さぬいくさもあります。それを知るのは大切です」
わたしは首を傾げ、おじいさまを見下ろした。
「おかあさまとおとうさまの喧嘩のように、ですか?」
はは、とおじいさまは声を上げて笑った。
おじいさまはゆっくりと、揺るぎない足取りで丘を下っていった。
おじいさまは、それから半年先の戦で亡くなった。おとうさまが仰るには、「小競り合いのようなもの」だったそうだ。
本当は、おじいさまは出陣なさるはずではなかったのだそうだ。おじいさまはなんと言ってもお年だ。しかし、出陣するはずの方が急におからだを壊し、おじいさまがお出になったとのことだった。
鬼神とはあの方のことだと、おとうさまはのちのちまで仰った。お若い時はこうだったであろうと、夢見たまさにそのお姿であったと。
おとうさまはおじいさまが亡くなる前日、楽な戦だと仰って、それをたいそう叱られたという。
確かに相手をこの土地に入れてはならぬということにおいて、ひとが死ぬということにおいて戦に大小はない、と。それは怖いお顔で仰ったそうだ。
そのことを、わたしは今でも考える。
都督であったおじいさまが、軍師を妻になさったおじいさまがそうお考えであった意味を、考える。
(2010.10.19)
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