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椅子に座り、柱にもたれかかった後ろ姿に、公瑾は細い息を吐いた。夕方になって降り出した久しぶりの雨は埃っぽかった空気を洗ってすがすがしい。しかしそのためにうす暗くなった回廊にちょこんと座っている妻の背は、どこか遠いものに見えた。
ぶりかえした暑さのせいで体調がすぐれず休んでいる、と侍女から聞いている。今日の城下行きを止めれば良かったと彼は渋面を作った。少しばかり涼しくなった途端に行動力が戻った花は、侍女たちに、今が見ごろのきれいな景色や城下に新しくできたおいしい店などを聞きまわり、公瑾に、一緒に行きましょうと口説いた。むろん、ふだんなら、万難を排してでも妻に付き合おうと思うが、国境付近が少しうろんなことになっているうえ、珍しく彼のまわりで体調を崩している者が多かった。このようなときに自分が妻との逢瀬で休めば、花が何を言われるか知れたものではない。
妻は振り返らない。公瑾は小さく咳払いをした。ぱっと振り返った花の顔が明るく輝いた。
「公瑾さん!」
椅子から立ち上がった柔らかい体を抱きしめる。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました。体調はもういいのですか」
「ちょっと立ちくらみがしただけなので、大丈夫です。水もたくさん飲みましたし」
甘えるように公瑾の胸元に頬をすりよせる彼女は、確かに元気そうだ。彼は花を抱いたまま、外に目をやった。
「このようなところで。雨が吹き込むでしょう」
「昼間まで暑かったから気持ちよくて。」
「厨房の者が、あなたが夕食を食べられるか心配していましたよ」
「食べられます!」
子どものように気合いをいれて答える花に、笑いだしてしまう。公瑾の様子に顔を赤らめた花も、じき笑い出した。
公瑾は花を抱いたまま椅子を蹴ってわずかにずらし、庭を見るように腰を下ろした。にわかの雨で庭の木々も緑を増したように思う。花を抱いていれば雨音も少しばかりやさしく聞こえるようだ。
「城下は楽しかったですか」
公瑾を見ていた花の顔が急にしぼんだ。
「楽しかった、んですけど」
「…何があったのです」
自然と低くなる公瑾の声に花は慌てたように頭を左右に振った。
「危ないことじゃないです」
「本当に?」
「はい!」
「では、なんですか?」
花はまた、顔を伏せた。
「今日行きたかったのは、侍女さんに、城下にわたしにそっくりなひとがいるって聞いたからなんです」
公瑾は片眉をあげた。花は俯いたままとつとつと続ける。
「わたしのもといた場所に、この世には同じ顔が三人いる、っていう話があるんです。なんていうことない話で、だからどうだって話なんですけど、侍女さんがすっごい似てるって言うから気になって。そのお店は安くておいしいお店ですごい混んでました。その子は、目をほそーくして見たらまあ似てないこともないかも、ってカンジで、わたしよりずっと可愛いひとでした。年もあっちがちょっと上みたいです。お店の看板娘…っていうんですか、はきはきしてて頑張ってて。それで思ったんです。公瑾さんもどこかにすごい似た人が三人いるんでしょうか?」
公瑾は花の顔をつくづくと眺めた。
「あなたはほんとうにおかしいことを考えますね」
「…ばかだと思ってますね」
「いいえ? そのようにわたしに似ているならば如何様にでも使えると思っただけです」
「えーと、そういうの、なんでしたっけ…そう、影武者。」
「そのようなものですか。それで?」
公瑾が促すと、花は不要領な表情のまま小首を傾げて彼を見た。
「それで…って」
「ええ、ですから、それで、どうしたのです?」
花は口をとがらせた。どうして誤魔化されてくれないのかと言いたげなその顔に笑みを返す。花はしばらく雨を眺めていたが、僅かに目を細めた。
「わたし、師匠や玄徳さんに拾われたじゃないですか。」
公瑾の口元が止める間もなく歪んだ。雨を眺めている花は知らない。
「あのひとたちじゃなくて、全然違うひとに拾われてたらああいう立場になってたり、悪くすれば右往左往するばかりで戦場で殺されてたりしたかもしれないな…っていまさらながらに思っちゃって」
ふいと振り返った花の頬は赤らんでいた。
「公瑾さんのそばに来て良かったなって!」
彼女が少なからぬなにかを略したことは、公瑾でなくても分かるだろう。それを問い詰めたい激情が、公瑾の足もとから瞬く間に這い上がった。
「――花」
「今度、玄徳さんや師匠にそう書こうと思って。このあいだはみんな、心配ばかり書いて寄越したでしょう? だからちゃんと、ありがとうございましたって。」
公瑾はゆるく眼を細めた。
このひとが口を噤んだのはむろん、彼女には己が居ればいいとばかり念じてしまうこの身に対して、そしてそれ以上にあの男たちに対して。その抜かりなさは計算されたものではないからこそ、まるでやわらかな刀だ。
(――わたしに対してだけ、その刃が閃く)
「花」
緩やかに呼べば、妻はちかりと光るような笑みを浮かべた。
「何でしょう?」
公瑾はより深く小さい体を抱き込む。
彼女が省略したことは彼女にもうまく伝えられないことかもしれない。いったいいつ、この娘を己が命と思うようになったかなど伝えられぬように。そのような甘い思いばかりではないだろうに、真っ先にそう思ってしまう自分が可笑しい。彼は小さく首を横に振った。
「何でもありません」
ふふ、と胸で花が笑う。
「変な公瑾さん」
「あなたに言われたくありませんね」
くすくす笑う花を抱きしめたまま、公瑾は眼を細めて雨を見ていた。
(2012.9.4)
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