[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
老齢の侍女が深々と頭を下げて、お疲れ様でございましたと言った。花は長い息をついた。
「ありがとうございました」
侍女が文若よりもかすかな笑みを浮かべていて、花はうれしくなった。表情豊かなひとではないので、少しでも笑ってくれると嬉しい。
こっそり、校長先生みたいと思う厳格さで彼女は孟徳の夫人である花に接する。それはとても嬉しかった。
礼を、花は受けるがわになった。孟徳は彼女をおもてにほとんど出さないが、それでも他の人々とまったく接触しないわけにいかない。彼はいろいろうるさく言うし猫にすら嫉妬するひとだけど、花を完全に閉じ込めてしまわないことにはそれなりに感謝している。作法を学びたいと申し出た花に、この侍女を連れてきてくれた。あとで、他の若い侍女に聞いたところでは、そのへんの若い官など太刀打ちできないほど宮の色々なことに精通しているひとだそうだ。
この世界のことをもっと分かりたかった。文字、料理、衣、詩、碁、文若のような官たちのこと、兵法、挙げていけばきりがない。筋道立てて、学びたいことを孟徳に訴えようと書き出してみたとき、あまりに自分がものを知らなくて暗然とした気持ちになったのを昨日のことのように思い出す。なだめ、抱きしめてくれる孟徳が急に遠いように思えて、でもこんなことで泣いていられないと簡を見据えたものだった。
しかし、思えば、もとの世界だってそう知ったものばかりではなかった。二次方程式は解けても携帯電話がどうして使えるのかも知らない。この間は自転車を説明しようとして四苦八苦した。孟徳は察しがいいし的確な質問をはさんでくれるけれど、フォローが微妙にずれているときだってある。そして彼は、花が間違いなく教えられたトランプやオセロはあっというまに上達し、勝てなくなってしまった。
老侍女はゆっくりだけれど優雅な裾さばきで花の前に来て腰を折った。
「ひとときお休みいただいたのち、先週お教えしたものを最初から通したいと存じます」
「先週のぶんですね、分かりました」
内心ひやりとしながら頷く。復習の確認も怠らないところは本当に教師のようだ。彼女は礼をして、扉近くに控えていた若い侍女に指図した。あっという間に侍女が退出する。彼女が出て行くと、部屋はしんとした。
花は、端然と立っている老侍女を見た。このひとは指導と挨拶以外はひとことも言わないのだ。
「…あの」
ゆるりと彼女が頭を巡らした。品のいい、彼女の深みのある白髪に似合う銀の簪が光る。それにはめ込まれている青い硬玉が目玉のように花を見る。
「わたし…どうでしょうか」
彼女が問い返すように首をかしげる。
「その、来月の宴に間に合うでしょうか」
「お励みになっていらっしゃいます」
淡々と彼女は言う。励んでいる、それはそうだ。自分だってがんばっていると思う。
「ふさわしい、でしょうか」
視線が揺れてしまった。主語を大きくはぶいたそれを、しかし侍女は的確にとらえた。
「お希みであるということは、ふさわしいということです」
草がそよぐような調子で言われた言葉に、花は少し目を見張った。
「そんな…単純なことでしょうか」
「はい」
そのとき、老侍女の表情を、なんともいえない色がよぎった。花の見間違いでなければ、それは孟徳によく似ていた。彼が楽しみを隠さないときの顔だった。
「男と女とはそういうものです」
花はぽかんとした。老侍女はいつもの、まるで絵のような佇まいに戻っている。肩から力が抜けた。
この答えは孟徳に教えられないなと思った。
(続。)
(2013.5.2)
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |