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文若はため息をついた。
「丞相」
「なんだ。さっきの簡で一区切りついたんだろ」
目も上げずに孟徳は机で筆を走らせている。見る間に簡が山になっていく。
「このあとの謁見の準備がおありと存じますが…失礼ながら、何をなさっているのですか」
「花ちゃんのりくえすとだ。りくえすとの意味は聞くな」
「要望という意味でしょう」
孟徳はじろりと文若を睨みつけた。
「…やっぱりお前のところに置いた時間が長すぎたな」
「それで、何をなさっているのです」
「花ちゃんの試験問題だ」
「は?」
孟徳は頬杖をついて筆の先を揺らした。
「花ちゃんが孫子をずっと学んでるのはお前も知ってるだろう。」
文若は頷いた。
「いささか、お手伝いをさせていただきました」
孟徳は面白くなさそうに頷いた。
文若にしてみれば本当に初歩の初歩だけだ。なにしろ、半分以上は以前から行っていた、文章を読む手ほどきだったのだから。孫子を学びたいと花が言ったとき、小さいが非常に頭の痛い騒動がまきおこったのを文若は忘れていない。まして花が、孟徳が教えてくれるのだと甘えてしまいそうで不安だから文若がいいと名指しした、その態度は実に殊勝で心配は的確であるが、そのときの孟徳の気配は実に…そう、自分をしてすらあまり思い出したくない。
「読んでいるだけだと、どこまで自分が理解してるか不安だと言うから、わざと間違ったものを渡して、どこが誤りか教えてもらうんだ。」
彼は目を眇めた。そんなことより、地図と駒を用意し、相手の兵力や味方の状況などを教えて模擬戦をしたほうが、よほどその教えを的確にとらえているか分かるだろう。孟徳はふん、と鼻を鳴らした。
「お前の考えていることは分かる」
「そうですか」
「地図と駒を用意しろと言うんだろ? ああ、その通りだ。花ちゃんはあの気性だ、非常に熱中するだろう。俺が相手だったらなおさらだ。俺は手を抜かない。それは花ちゃんの望むところじゃないしな。そして花ちゃんがみるみるうちに上達するだろう。それは明らかだ。…けどな」
孟徳は実に不機嫌そうな顔をして黙った。おそらく、俺が花ちゃんとしたいのはそんなことじゃないと叫びたいのだろうと文若は脱力した。さして深い洞察力がなくても、言いたいことは分かったろう…たとえばいつも孟徳に付いているあの片目の将軍など、花のことを言い出した時点で分かったに違いない。
ふいに孟徳の肩から力が抜けた。
「俺は花ちゃんを戦場に連れて行きたくはない。だがその才を見てしまったら、それがどこまで輝くのか見たくなる。俺はそういう男だ」
自嘲的に歪んだ口元のまま筆は素早く動いていく。文若は嘆息した。
「奥方は様々な素質がおありになる」
孟徳が上目遣いで文若を見た。へえ、と言いたそうな顔だ。
「ねばりづよく、辛抱強い。何よりすぐ泣きません。よき文官になると存じますが」
「…お前の補佐で? 駄目に決まってるだろ」
「まこと、丞相の悋気は底知れずでおられる」
文若はあえて笑ってみせた。孟徳が目を眇め、了解していると言いたげに、ふん、と鼻を鳴らした。
「花ちゃんはお前を信頼してるからなあ。」
文若は無言を通した。
丞相の寵愛を一身に受けた妻、そして機密に通じる妻。そのどちらも兼ね備えてしまえば、これほど輝く存在もない。それを守り切ると豪語できるような鈍感さはない。
花が気づいているかどうかは知らぬが、この間もひとり、捕まった。まったく、ばか者だ。ひとりの女を消すだけだと思っているのだろう。そのあとに待ち構える、まさしく炎さえ凍り付くであろう憎悪を、それを世に向けることをはばからぬ地位を理解していない。無論、その者は達成したあとのことなどは知るまいが、まったく迷惑なことだ。
文若は礼を取った。
「では、わたしはこれで失礼いたします。」
「ああ」
孟徳がひらと手を振る。扉を閉める。回廊の前の日差しがことさらにまばゆく思えた。
危ぶまれるほど娘に溺れたあるじは、あの娘の手でなければと日々思い詰めているくせに、鋭い眼差しをもって自ら足下を揺らすのだ。
逃避を重々承知の上で、まあ花だから仕方が無いと心中で呟く。実際、文若には分からない。それほど女に溺れるという意味を理解できない。しかし、花に接するうちに、彼女だからとため息ひとつで了解してしまう不思議な領域があることも事実と知っている。
彼は今度は意識してため息をつき、執務室へ歩き出した。
(続。)
(2013.5.6)
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