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鋭く響いた鳥の声に、いつになくはっきりと目を覚まされる。花は目を見開いた。ひどく不穏な声だった。そのせいで、何か嫌な夢を見ていたような気さえ、する。
喉が渇いている。ここ数日、驚くような好天だったせいだ。乾いた暑い風がくるくると吹き抜け、洗濯物を落としたり芽吹いた若葉を散らしたりしていた。だから、部屋のなかはかすかに砂の匂いがする。花は唇を舐めた。もう少しだけ待って、枕元の水差しをさがそう。昨夜、解くように溶かされたからだは気怠くて、無理に起き上がっても水差しを探す前に寝台から落ちそうだ。
花は目を上げた。当然目に入る夫の寝顔を見るはずが、そこでまた、花は動きを止めた。
公瑾はじっと闇を見据えていた。
闇を見るという表現は正しくない。この世界の夜は灯りや月光がなければ本当に暗くて、どんな気配にも怯えてしまう。彼の顔が見えるということは、明け方近いのだ。どんなに厚い布を貼っても部屋には日の光が入ってくる。
それでも彼は闇を見ているように思えた。静まった横顔がうす青く発光しているような、研ぎ澄まされたものがその表情に浮かんでいるようで、花は息を殺した。こんな表情は、しばらく見たことがない。
花は、公瑾の執務室にいるようになってから、前線には出ていない。いや、この国で第一級の武官である彼の執務室は前線といえばそうなのだが、あそこで血のにおいはしない。それだけで花には大きな違いに思える。婚儀を挙げてからはなおさら、公瑾は花がそういったことに関わるのを嫌がった。非常に歯がゆいし悔しくも思うのだが、何ができるといって何もできはしない。自分の妻というだけで否応なく関わり合うこともあるからそれまで待ちなさいと公瑾は苦笑混じりに言うので、花はとりあえずおとなしくしている。それは彼女の基準であり、公瑾に言わせればちっともおとなしくしてなどいないらしいのだが、とにかく、いまは日々のことで精一杯だ。
だからなおさら、公瑾のそんな表情は久しぶりで花の頭の中はすっと冷えた。何か恐ろしいことが起きようとしている、そんな予感だけが急速にせり上がってきてのど元を締め付ける。声を掛けようとしたとき、彼はこちらを見た。
「おや」
口元がゆるく笑んだ。底光りするようだった表情は霧散した。彼は見慣れた「夫」になった。
「おはようございます。早いですね」
「…お、はようございます」
さらに彼の口元が歪んだ。
「どうしました」
花は何度か口元を動かしたが、結局なにも言えずに彼の肩に額を押しつけた。ぬくもりがいつもより薄いような気がして、花は唇を噛んだ。彼の指がくすぐるように花の髪を梳いた。
「髪が伸びましたね」
まるで普通の囁きだ。花はつばを飲み込んだ。
「そう、ですね…まだきれいに結うには長さが足りないらしいですけど」
「こちらの娘のようにするには、確かにまだ長さは足りませんね。」
声音を探っても、揺れは分からない。
「毛先が首筋にあたるのでちょっとくすぐったいんです。でも後ろでひとつにくくってたら、公瑾さんの奥さんとしてはどうか、って言われてしまいました。楽なんですけど」
「それはあなたが侍女のように立ち働こうとするからですよ。何度も言っているでしょう、あなたはとりあえず、書を自在に書けるようになりなさい」
「でも、公瑾さんの好きな食事を作ったり服を繕ったりするの、楽しいですよ?」
「…そのたびに火傷をしたり針を指に刺してもですか?」
声音が低くなったような気がして、花は唇を尖らせた。
「公瑾さんだって最初からなんでもできたわけじゃないですよね、きっとそのうち火傷したり針で怪我しなくてもできるようになりますよ。ほら、墨だって公瑾さんの好みに準備できるようになったでしょう?」
口にすると、なんてささやかなことだろう。公瑾が笑うことを探すのも難しい。口ごもっていると、彼は花の頭をやんわりと押さえ、胸元に抱き込んだ。
「そうでしたね、あなたはたいそう努力家でした」
「…はい」
指が伸びてきて花の頬をかるくつねった。
「自分で努力家です、などと言わない」
「痛いです!」
「つねりましたからね、当然です」
指がその場所を撫でて離れる。
こんなことで思うのも癪だけど、いつもの彼だ。甘やかすのが好きで口うるさくて、上等の衣で優雅にうたたねできるくせに剣を抱いて眠ることさえする。いままでの自分の人生にいなかったひと。
さっきの横顔も彼のひとつだと自然に思うにはまだ彼の傷やいくさ場の記憶は生々しくてひるむけれども、いつかは覚悟、ができるのだろうか。そこまで考え、花はきゅっと身を縮めた。自分はいつまでもおろおろと迷っていそうな気がする。
ああ早く、このひとにふさわしくなりたい。…いまは、せめて。
「どうしました」
優しく、優しく声が降る。花は勢いよく顔を上げた。驚いたらしい公瑾が瞬きする。
「今日はおやすみでしたね」
「…ええ」
「じゃあ二度寝しましょう!」
花は強引に公瑾の腕から抜け出すと、彼の頭を胸に抱え込んだ。ややあって、微笑んだらしい息が花の夜着の襟元をくすぐった。
「もう少し艶のある誘いを教えてもいいのですが、確かに眠り足りないようだ。おやすみなさい、花」
ひどく素直な言葉に、さっきの鋭い横顔が脳裏を過ぎる。
何が彼を起こしても、それが無意味だと嗤われても、わたしは祈ることを止めないのかもしれない。彼の身が穏やかであるように、彼に何も酷いことが降りかからないように、どこにいるかも知らない、「あの」本のように全能であるかも分からない、遠くに居る何かに。
彼の気配がゆっくり穏やかになっていく。自分はこれから先、この気配を何より願って眠るのだと、目を閉じた。
(2013.5.10)
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