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花は、小さいため息をついて扉を見た。燭の炎が細く伸び上がり、かすかな音を立ててまた収まる。卓に頬杖をついて目を閉じた。
「孟徳さん、本当に遅いんだなあ…」
遅くなると連絡はあった。時計も無いこの世界では、日暮れから先の時間を考えていると心底、鬱々としてしまう時がある。文若はそういうときに手習いをしろと言うのだろうなと思うが、シャープペンをかちかちやってノートに書く、というわけにはいかない。水を用意し、墨をつくり…そうこうしているうちに孟徳が帰ってきたら、それはそれで余計な気を回させてしまう。
花が孟徳に望むのはただ、この部屋ではぽかんと過ごして欲しいということだけだ。花さえも空気であればいいと思う。
まさか、先日頼んだ、「宿題」の件で遅くなっているのではないか。
彼は、花が何か頼むと、そのほかすべてをなぎ倒す勢いで叶えようとする。それが孟徳の妻であるということだと、彼は繰り返し花に言う。
かぐや姫みたいだ、と花はぽつんと思った。まさか孟徳の側から去る訳もないし、難題を出すのを楽しんでいるわけではないけれど。彼はそうやって、己の側に居る意味を与えようとしているのだろうかと思う。これはたぶん寂しさだ。
花は、どうにもならないことをただ考えているだけの性分ではない。けれど、孟徳のかたわらでは自分で動けないことが多すぎて、ただひたすらに不自由を数えてしまう時がある。自分で気づける時はいいが、文若や元譲がため息まじりに、実に不機嫌そうに花の気持ちを解きほぐしてくれる場合もある。残念ながらいま、ふたりは側に居ない。
花は小さく首を横に振って立ち上がった。扉を開けると、少し湿っぽい石の匂いがする。雨が降るのだろう。昼に会った星見の老人もそう言っていた。
花が廊下に出てきたのを察して、侍女がふたり、少し離れた扉を開けて出てきた。派手な化粧の年かさの侍女が軽く膝を折る。
「ご用でございましょうか」
「孟徳さんはまだ戻りませんよね?」
「はい。触れは承っておりません」
「じゃあ、孟徳さんに夕食を持って行きたいんですけど」
侍女はかすかに眉を動かした。
「丞相はいま、北からおいでになった方々とお会いになっていると存じますが…」
「そうなんですか?」
「はい。何でも、嵐で到着が遅れたとか。丞相もその口上が真であると確認なさったのでこのような時間でもお会いになったとお聞きいたしました」
…ああ、まただ。
花には、こんな小さいことも知らされない。ただ、孟徳の夢を見るように待つだけだ。
孟徳さん、と花は心中で呟いた。
妻になるというのは、なんだか難しいです。恋に慣れないうちに妻になった自分には、あなたを想うこと以外に足場がない。
頼りない目をして、そのくせすらりと「好きだよ」と告げるあなた。
もしかしたらあなたもどこかに、こんな気持ちを持ってはいませんか。でもあなたはわたしよりずっと年上だから、自分にははっきりつかめない、この罪悪感に似た、でもそれとは違うと言い張りたいようなこの気持ちの名前も分かっているんじゃないでしょうか。
花は侍女に礼を言って引き取って貰った。部屋に戻って椅子に座り、深呼吸する。
「…だめだめ」
自分でできることを、できることから。いつも言い聞かせていることだ。遠慮も気遣いも紙一重で、それはたいがい、同じ色をしているのだもの。…自分だって、同じだ。
食べることも生きることも当たり前で、そのうえに、自己実現なんて言葉を与えられた自分の焦りは、孟徳さんにはゆっくり分かってもらうしかない。
花はちょっと苦笑した。その笑みは火影のせいで、ずいぶんと大人びていた。
(続。)
(2013.5.16)
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