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「ラブコメ」と、「同僚の方々とのいち風景」というリクエストでした…が! こめでぃ…コメディ要素がない…うううごめんなさい。
参加、ありがとうございました!
彼はこっそり視線をさまよわせた。
以前は、この執務室に来るのは、ほんとうに気が重かった。彼とて、文官としてこんな世の中、それなりに場数を踏んでいるからそうそう誰かの叱責にひるむことはない。ただ、この部屋だけは別だ。なにしろここにいるのは彼からすれば、いや、多くの文官たちにとって上位に居る人間だ。そのうえ、堅物と生真面目さでは誰も敵わない。
そのひとは年中、忙しい。そのため補佐にと差し向けられる官吏は多かったが、ここに来るときは必ずくじ引きをしていた。くじに当たると、表向きは粛々と準備をしながらいろいろなものを呪ったものだ。
ただその意味は最近、変わった。実際、今日、彼は羨ましがられたのだ。
その部屋に行けば、明るく挨拶をしてくれる娘がいる。大きな目をした、快活な子だ。子、というのは適切ではないかもしれない。自分たちとそんなに年齢は変わらないはずだが、それでもくるくる変わる表情や甘さはないけれど親しげな物言いは、どうしても「あの子」という表現がふさわしく思える。
その娘は、いま、この部屋の棚に向かって簡を仕分けしている。少年のようなうす緑の衣がかえってその肩の丸みや見え隠れする襟足の白さを強調している。
彼女は玄徳軍の軍師であり、この軍の捕虜だったはずだが、諸々の噂で聞く経緯(どれが本当かなど自分には計り知れない)を経て、彼女は正式にこの軍に居ることになったという。
それより衝撃的なことには、誰もが恐れるこの執務室のあるじと、恋仲だというのだ。
たちの悪い笑い話だとか、何か裏のある話じゃないのかとか、議論が渦巻いたところに自分も何度も行き会った。そのたびに会話に加わったものだが、いまはもうしない。
彼女の袖がひらひら揺れる。袖口に凝った刺繍が施されているそれは、銀糸でも入っているのだろう、ちらりちらりと目に止まる。
ああ、あのままだと袖を机の簡に引っかけて落としてしまうと思ったとき、彼の視界をさっと黒い衣が横切った。
「気をつけなさい」
低い声に、娘が振り向く。文若が、まさに落ちそうだった簡を手に持って娘に差し出していた。
「ごめんなさい!」
花が受け取って小さく頭を下げた。
「一度に持ちすぎだ」
「そうですか?」
彼女は慎重な手つきで卓に持っていた簡を置いた。どれもそう分厚いものではないけれど彼女なりの順番があるのだろう、持っていたかたちを崩さずに置こうとしている。それが成功したらしく、彼女は嬉しそうに笑って文若を見上げた。
「これを片付けたら一段落ですから。お茶をもらってきますね」
ひょい、と彼女の視線が自分に向く。その笑顔は、いまは遠くに嫁いだ幼なじみの少女を思い出させた。姉のような妹のような彼女には、何ともいいようのない淡い感情しか持っていなかったけれど、そのひとが居なくなって確かにぽかりと空いた場所があった。
「お菓子は公和さんの分もありますから」
「…それより、傷薬をもらってきなさい」
ありがとうと言うより先にかけられたため息交じりの声に、彼女の目が丸くなる。
「きずぐすり?」
文若の手が彼女の小さい手をなぞるように持ちあげた。白い柔らかそうな手の甲を彼の指がなぞる。
「見ろ」
「うわ、いつの間に。さっき簡で切っちゃったのかな?」
目を丸くして己の手を見る彼女は、その表情をそのままに文若を見上げた。
「文若さん、どうして分かったんですか?」
文若は何も言わずに、その手に白い手巾を巻いた。そうして戸口を指し示した。
「行きなさい」
「はい」
短いながらも有無を言わさない口調に、彼女は首をすくめるようにしてうなずき、そそくさと部屋を出て行った。
出て行っちゃったな、と彼はため息をついた。そっと目を上げると、文若がこちらを横目で見下ろしていた。思いつく限りの大きな字で威圧と書きたくなるような表情は一瞬で、文若は卓に彼女が置いた簡の山を、袂から取り出した大きい布で丁寧に覆った。ことりとも簡を動かさずに実に丁寧にそれを終えた彼は、もうこちらを見ずに自分の机に戻って仕事を再開している。
…さて、悩みどころだ。仕事はもう終わりかけている。
彼女が傷の手当てと、茶の用意をして戻ってくるまでそれほど時間もない。同僚の羨望を買うことが確実な彼女の手作りの菓子を貰うだけで去るか、文若の冷気(多分に比喩ではない)を被ることを承知で休憩にも参加し彼女とのおしゃべりを楽しむか。少し考え、彼は立ち上がった。文若の机の前に立って礼を取る。
「お言いつけの事項はすべて終わりました」
文若がうっそりとこちらを見、重々しく頷いた。
「分かった。部署に戻れ」
「はい」
彼はいっそう頭を下げると、割り当てられた机に戻った。これから筆や硯を片付けていれば、彼女の足音が聞こえてくるだろう。そうしたら、彼女の手のひらのようにかわいい菓子と、本人も気づいていない傷に目をとめた令君の過保護を土産話に部署に戻るとしよう。彼は同僚の女たらしを思い出した。彼なら、菓子もおしゃべりも楽しんだあとで次回の菓子も約束させるだろう。しかし自分は、自分らしい平穏なやり方を取ることにするとしよう。
さてこれで、この部屋に来たくなる官吏は減るか増えるか。彼はひとつ頷くと、いつもよりものろのろと筆をまとめはじめた。
(2013.1.27)
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