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花が帰ってきたとき、文若は僅かに首をひねった。出かけたときと何か変わっているような気がする。
戻りましたと言って微笑んだ様子も穏やかだったし、棚に簡を仕分けしている後ろ姿も落ち着いているし、何がひっかかったのだろう。
今日はこちらの衣を着ている。それは彼女的には目新しいことだが、それではない。帯の様子か、髪飾りでも変わっているか? …その、どれでもない。
彼女は、ここに居ると言ってくれた。その日から彼女は、こちらの衣を着ようとしている。そういう心づもりを相談されてから、いくさ準備のようにすみやかに手回しした。孟徳の侍女ほど派手でなはく、宴のときほど華美ではないものをと迷った結果、そこらの侍女と同じようなものになったのは忸怩たる思いだが、おいおい考えればよい。
そういう心持になってくれたことに、とても安堵する。彼女が「あちら」の衣を着ているかぎり、彼女に慣れた世界から、言葉一つで引き離した自分の浅ましさを自覚する。あの見慣れぬ書物はいつ何時、彼女を己から引き離すかしれないのに、彼女が思い出ではないことに安堵する恐ろしさを思い知らされる。
文若は軽く咳払いした。
「花」
「はい?」
振り返った彼女は、文若が何も言わずにいると小首を傾げて歩み寄ってきた。
「なんでしょう?」
ふしぎそうな彼女の顔をつくづくと見る。――分からない。彼はもういちど咳払いした。
「何か、変わったことはなかったか」
漠然とした問いに、花はくるりと天井を見た。
「変わった、こと?」
「ああ。」
花はゆっくり指を折った。
「届ける先は三つありましたよね。道に迷いもしなかったし…正確には迷いかけたところを、立ち話をしてる官の方に助けてもらったんですけど、ちゃんと届けました。途中でいきあった人から文若さんに届けるのを受け取って…あ、そのひとに髪飾りが曲がっているからって直してもらいました。男のひとに指摘されるのはすごく恥ずかしかったけど、最後にいちばん遠いけどいちばん大事だって言われてた宛先があったので、その前に身だしなみを直せて良かったかなって。そこでは、文若さんあての簡をまとめてくれててすごい嬉しかったです。一緒に行きましょうかって言ってもらったんですけど、ひとりで持てる量でしたから。親切なひとですよね! えーと、名前を教えてもらったんです。公…なんだったかな。次に会ったときにちゃんと聞きます。」
首をすくめてきまり悪そうな表情をつくる花に、目を細める。
彼女がここへきて、少なくない日が経った。だが珍奇な存在であることに変わりはない。侍女も多く立ち働く場所ではあるが、なにより、あの衣と結いもせぬ髪だ。それがこちらの衣を着だしたことで少しは見慣れた「娘」になった…と、思ったのだが。
花を使いに出すと、簡の集まりが良いような気はしていた。最近は迷わなくなったと言ってはいた。
彼らも、文若と同じように感じているのだろうか。こちらの衣を着た娘が己の手の届くところに来たと思ったか。眉間に力が入る。
文若さん、とけげんそうに呼ばれて我に返る。
「何かわたし、間違っていたでしょうか?」
「…いや、そうではない。すまなかったな、仕事を続けてくれ」
「はい」
花は安心したふうに肩から力を抜いて笑った。身軽に背を向けて、簡を置く棚の前に戻っていく。その背に、苦笑がもれた。
結局、ひっかかったのは何だったのだろう。己の狭量さに有りもせぬものを見たかと恥じる。
あの娘の指先も、笑みも、すべてこの袖に隠しておくにはどうすればいいかと考えるなど、己を許せぬ気になる。
いちどならず何度かふたりで官を回ったが、どうにもふわふわと隙の消えぬむすめだ。どうおさめれば良いか。にわかに深さを増した眉間で考える文若の耳を、かすかな花の歌声が過ぎていく。彼はかすかに苦笑を刻んだ。
こういう男を、お前もそのうち手慣れた女のように笑い飛ばすのだろうか。
歌声は文若の筆を宥めるように流れていった。
(2012.9.27)
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