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文若は簡を繰る手を止めた。ここはさっき読んだと、怒りすら覚える。むろん、集中力が欠けている己に対してだ。
部屋は彼が居るきりだ。軒先でやかましく鳴いていた鳥の声もとうにしない。彼は眉間にしわを寄せた。休日ならばお休みしてくださいと、ほとんど懇願に近い表情でねだる妻は夫をおいてどこへ行った。
薄めに開けた扉から少し強い風が吹き込んで、襟足を払っていく。少しこもるような曇り空だったから開けておいたが、風にはわずかに水の匂いが混じる気がする。文若は簡を置いて、隙間から見える空に目を凝らした。日がどこから射しているか分からぬような分厚い雲は相変わらずのようだ。
扉が静かに叩かれた。失礼いたします、と囁くような声で断りを言った侍女が、茶器を持って入ってくる。非常につややかな印象のある彼女はこの邸に最近増えた。ここに仕える侍女は、あるじの地味さを映したようだと言ったのはどこぞの上司だが、文若が意図したことではない。邸を差配する老家令が、あるじが由緒正しい妻を迎える前に美人の侍女に迷ってはならぬと思い定めた為だ。しかしそれも、彼が婚儀を上げてからは少しく状況が変わった。邸が明るい印象をもつようになったのを、文若はひとえに妻の所為と思っているが、侍女たちも家令からうるさく言われることがひとつ減ったから、と下働きの者はあけすけに言う。本来、妻を迎えているかいないかは、邸のあるじに懸想するかしないかにかかわるわけではないのにおかしなことと、伸びやかになった侍女たちに、からかいを含んで噂される。
文若は咳払いして茶器を手に取った。下がっていこうとする侍女を呼びとめる。
「…あれは、何をしている」
花、と。
ぜひそう呼んでくれとねだった呼び名を、家人の前で告げることに未だためらう。侍女は目を伏せたまま、少し頭を低くした。
「厨房にいらっしゃいます。」
「まだ終わらぬか」
侍女の視線が、茶器に目を落としたままの文若をかるく撫でたが、彼は気付かなかった。
「佳境、とお見受けいたしました」
文若の口元がむっつりと結ばれる。
「手がすくようなことがあればこちらに来るように申せ」
「はい」
かすかな衣擦れの音とともに侍女が退出する。彼女が出て行くと彼は茶器を卓に置いてため息をついた。なんという無様な申しつけをしてしまったのか。
彼女が厨房に居るのは「妻」としては当然のことだ。ふだんは墨で手を黒くしている花だが、料理を作るのは好きらしく、恋仲の頃はささやかな菓子を作ってくれた。その彼女は、文若の妻となってから何やら張り切っている。邸には厨房を預かる者もいるので彼女がいちいち指図しなくても腹をくちくすることはできるのだが、菓子しか作れないというのはどうにも落ち着かなかったらしい。
彼が太い息をついたとき、軽い足音が駆けてきて扉をあけた。文若はうんと眉間のしわを深くした。
「ちゃんと声を掛けてから開けなさい」
「ごめんなさい、つい、自分の部屋だと思って」
その言い分に口元が緩みそうになるが、彼はあくまでしかつめらしい顔のまま、小さな籠を持った妻を見つめた。花は、走っていないとかろうじて言える歩幅で文若の膝に飛びつかんばかりに近寄ると、籠の蓋を取った。ふわりと湯気があがる。
「…これは」
「できたてです! 食べてみてください」
竹の皮にくるんだ粽は、むやみに大きい。花の顔に視線を戻すと、ばつが悪そうに笑う。
「メモ…えっと、手順を簡に書くのもたいへんで料理人さんにつききりで教えてもらったんですけど、包むのって難しいですね! 何回かばらけそうになってそのたびに巻いてたらすごくなっちゃって」
「倍ほどもあるな」
「おいおいがんばります。あ、いま、お箸を」
「このままでいい」
粽は、敵に投げつけることができそうな重量感があった。熱いのをこらえて竹の皮を慎重に剥くと、また新たな湯気といい匂いが立ち上る。ひとくちかぶりつくと、肉の味が強く広がった。
「珍しい肉を使っているな」
「鹿のいいのが手に入りましたからどうぞ、って言われたんです。どうですか?」
文若は、手習いの添削を待つ時より格段に楽しそうな妻を見返した。無言で塊をちぎると花の口に運ぶ。目を丸くした花がそれでも素直に口を開けた。ひと口ふた口、彼女の顔が明るくなった。
「おいしい、けど、まだちょっとかたかった…ですか?」
「大きいからだろう」
「ああ、やっぱり難しい」
ため息をついて粽が入った籠を引こうとする花の手を文若はつかんだ。
「どこへ持っていく気だ」
「蒸し直して来ようかと思ったんですけど…」
「このままで良い。お前も付き合いなさい」
自分の隣をうながすと、花はぱっと表情を明るくし、いそいそと並んで座った。粽を大きく半分に割って渡すと、それが宝のようにうやうやしく受け取る。目顔で問うと、彼女は少し照れくさそうにした。
「なんか、楽しい、です」
笑み崩れた顔のまま粽にかぶりついた花が、あふ、と慌てたように粽を口から離してまた、笑った。
「やっぱり熱いですね」
「そうだな」
それきり静かになった妻の顔を盗み見る。子どものように無心にほおばっている様子がなぜかくすぐったくて、文若は粽を咀嚼することに専念した。
(2012.8.24)
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