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花が、大きめの焼き菓子を手で割って口に運ぶ。その表情がゆるりと解け、言葉より雄弁に、その美味を楽しんでいることを伝える。
「…不思議です」
子建がしみじみ呟くと、菓子をゆっくり咀嚼していた花が大きな目を彼に向けた。
季節の合間の、暑くもなく寒くもない日よりの今日は、外に居るのに最適だ。いちばんは、たいがい共に来る彼女の夫が来られなくなったと言われたからだ。彼女の笑顔はこういう柔らかい日差しにこそ相応しいと常々思っているから、これ幸いと連れ出した。
詩作の勉強という理由で月に一度ほど彼女と過ごす時間を獲得するまでに、彼は自分でも珍しいような忍耐を持ってことに当たった。我が儘をそれと自覚するほうが困難な出生と身分であるが、それ故の思惑も常に絡まりつく。優秀な兄と己にまつわるうっとうしい噂は常に飛び交っているが、子建はむさくるしい男どものうごめく面倒など言語道断だ。そう公言したこともたびたびなのに、世の中の視線は面倒なばかりだ。だからこの娘を招く時も、本当なら邸のひとつでも建てたいくらいだったのに、公邸のひとつで我慢した。
見守る先で、噛みつきたくなるような滑らかな喉が動いた。
「どうかしましたか?」
彼が選び、彼に侍る侍女たちや妓女たちとはまったく違う彼女は、会った時既に人妻であった。それが幸いであったろうとは父の言いぐさであったけれど、頷く気もしない。
「あなたはたいそうお若くてきれいだ」
花は瞬時に真っ赤になり、そして本心から拗ねた顔をした。
「子建さんみたいに若くて綺麗な人に言われても困ります」
「事実ですから」
彼は散らばっていた簡のひとつを手に取った。薫り高い墨は、この場のために作らせた。柳の芽吹きを生き生きと詠った詩だ。筆致には独特の丸みがあり、それゆえに彼女の手とすぐ分かる。
「生き生きしているし、素直だし。ですから、とても不思議なのです。あなたと令君が、もう何十年も連れ添っためおとのように言われることが」
花は瞬きして、苦笑した。
「それ、孟徳さんや文和さんにも言われるんですよね。落ち着いてるのは文若さんだけで、わたしは全然落ち着いてないのに」
彼女はその言い様のまま、落ち着きなく袖をつまぐった。今日も、文若を彷彿とさせる落ち着いた色合いの衣ながら、帯に施された刺繍が華やぎを添えている。
子建は首を傾げた。
「令君とて失礼ながら、あなたと居る時はたいそうお若い」
「文若さんは孟徳さんより若いんですよ?」
頬を膨らます花に、子建は笑った。
「そうでしたね。まあ父は例外中の例外なので」
「子建さんも若いままなんじゃないですか?」
「わたしは美しく老いる気満々ですけどね」
子建の口ぶりがおかしいと、花はころころ笑う。彼は簡を置いた。
「ともかく、あなたの一挙一動にうろうろする令君はたいそう若くていらっしゃるのに。どうしてでしょうねえ、ふたりが話しているとやはり年を経た夫婦に見えます」
視線を惑わせた花は、文若が働いている方角に目を向けた。彼の夫は今日はことさら無愛想に仕事をしているだろう。
「わたし」
花はゆっくり視線を子建に戻し、もじもじと目を伏せた。
「そう言われるのって、わたしたちが若いからこそですよね。文若さんとはずっと一緒に居たいから、その言葉はわたしには褒め言葉です。…文若さんも同じく思ってくれるなら嬉しいですけど」
子建ははにかんだ微笑を、しみじみと見た。噂でしか知ろうとしなかった風変わりな娘に会ってみようかと思ったあの日の自分を、彼はあとあとまで賞賛してもいいと考えている。
子建は思わせぶりにため息をついた。
「こうなると、あの話も本当なのですね」
「はなし?」
途端に表情を幼くした彼女に、彼はうっとり微笑した。
「先に就寝した夜更に令君が邸にお戻りになる夢を見て起きたら、まさにあの方が寝室に入られたところだったと。以心伝心だと嬉しかったとか。」
「いやー! なんで子建さんが知ってるんですか!?」
花は頬を両手で押さえて縮こまった。
「父に聞いたからに決まっています。」
「孟徳さんてば、内緒だって言ったのにー!」
小さく地団駄を踏みながらせわしなく立ったり座ったりする彼女は、恨めしそうに役所のほうを見た。ちなみに孟徳は、打ち明け話の時の花がいかに愛らしかったかより、これをどうばらしたら文若をより破壊的にからかえるかと真剣に悩んでいたが、黙っておこう。
「あの方も、ひどい荒天であなたのことを案じておられ、ぼんやりしていたのを父がこれ幸いと追い出し、いえ、帰宅させたと聞きました。」
花はぴたりと動きを止めた。おそるおそる、子建を横目で見る。彼は、自分がずいぶん年上になったような思いがした。
「互いを案じ合う、仲の良いめおとのお話ですねえ。」
耳まで真っ赤になって己の袖の中に隠れてしまった花に、子建は忍び笑いを漏らした。隠しきれない柔らかそうな耳に唇を寄せる。
「褒め言葉、でしょう?」
震えながら彼女が袖の隙間から目を上げる。視線が合うやいなや、また素早く隠れた彼女に、彼はすっかり相好を崩した。この反応ばかりは父に教えまい。
上機嫌で簡を揃える彼をからかうように、鳥がやかましく鳴き出した。
(2012.1.15)
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