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文若さんと花ちゃん、お子さんが生まれたころ。
低い声が旋律を紡ぐ。
ゆりかごの動きに合わせた、ゆっくりした調子で花はうたっている。歌詞は聞き取れないほど小声だし音階は聞きなれないが、聞き苦しくはない。むしろ流麗だと思う。
うららかに晴れているせいもあろうか、ものの音はみな空に向かって上がっていく。しかし花の声だけはゆりかごの周囲に留まっている気がする。ごくごく薄い布のような、わずかの風にもゆらぐけれども心地よいそれが、花と赤子をくるんでいる。
そのさまをぼんやり見ていた文若は、瞬きした。いつのまにか花がこちらを見ている。彼女は目じりを下げた。
「うるさかった、ですか?」
文若は首を横に振った。
「赤子の部屋に押しかけているのはわたしだ」
「押しかける、だなんて」
花が首をすくめるようにしておかしそうに微笑する。
「文若さんは、この子のおとうさん・ですよ?」
「そう、だが」
彼の戸惑いを感じたかのように、赤子の目がぱちりと開いた。手がふわふわと泳ぐ。彼にはまだ触れるのもためらわれるふにゃふにゃしたそれを握り返しながら花はくすくす笑っていたが、名案を思い付いたように表情を明るくした。
「文若さんも歌ってください」
あやうく、持っていた白湯を落とすところだった。
「わたしが歌など歌わなくていいだろう」
「好きな歌だとごきげんなんです。おとうさんが歌ったらもっと機嫌よく眠るかもしれません。わたしもレパートリー…えーっと、手持ちの歌が尽きそうだし」
「お前がいま歌っていた歌が好きなのか、この子は」
「そうですね、すぐ寝ますね。もっとも、そういうときの歌なんですけど。音楽の授業でむかし、習いました」
「では、わたしが覚えるまでそれを歌っていなさい」
「あ、ずるーい」
「ずるいとはなにごとだ。子が心地よい環境をつくるのは親の役目だ」
「もう、理屈では文若さんにかないません」
「いいから、続けなさい」
「はあい」
花は、さっきより少しだけはっきりした声で歌いだした。子の幸いとよい夢を願う他愛ない歌詞だ。だが、花のあんなにうれしそうな表情、まろやかな声とあわさると、こうも甘く聞こえるものか。この歌に包まれるこの子はいま誰も敵わないほど幸せだ。
もし――もし、自分だけがこの世に残される時があるとしたら、この歌を思いだそう。いまこのときの幻がきっと温めてくれるだろう。彼は瞑目して、歌をしまいこんだ。
(2012.11.2)
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