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文若さんと花ちゃん。婚儀後、引っ越し後です。
文若は、ほうと息をついて茶を卓に戻した。その動作に花が文若を見た。背を伸ばすようにして茶をつごうとするのを、首を振って止める。花は微笑んだ。
「どうしたんですか?」
「いや、この邸でゆっくりするのは初めてのような気がしてな」
新しい邸には、まだ木の香が漂う。もとの邸から持ってきた調度や敷物類もようやく馴染んだようだ。
独り言のように言うと、花は心配そうに眉をひそめた。
「そうですよ? 初めて、です」
そんな表情ばかり見慣れたと言えば、新妻は悲しむだろう。怒る、というよりそちらだろうな、と文若は思う。知ったつもりになっていた「妻」という言葉よりも幼い印象のある花は、驚くほど深い情を夫に傾けてくれる。朗らかに愛を歌うと思えば、深く悲しむことを知る娘だった。
突風に若葉が一枚、卓に舞い降りる。白い指がそれをつまみ上げ、風に戻すように放す。
文若は軽く咳払いをした。
「おかしなことを言うが」
「はい?」
きょとんとした花は、焼菓子をつまもうとしていた手を止めた。その前髪を風がなぶって過ぎる。
「なぜかわたしは、この邸ではなく前の邸にいる気がするときがある。お前が隣に寝ているのを目の前にして、前の都で家路を急ぐ自分がいる気がしてならない。お前がまだ、前の執務室で掃除をしている気がするときもある。おかしなものだ、こうして本拠を移るなど初めてではないのに」
最後は自嘲じみたが、花は勢いよく頷いた。
「わたしもです」
文若は瞬きした。
「そうか?」
「はい。もうひとりのわたしはまだ前の部屋で朝の支度をしているみたいな、なんだかふわふわした感じがたまにあります。」
「そうか」
確かにそんな感覚だと文若は思った。
花のその感覚のなかには、文若の手の届かない彼女の故郷も含まれているのだろうか。
彼女は、椀の縁を指先で軽くなぞった。
「わたしも、あっちこっち移ってここに来ましたけど、こんな感覚は知らなかったです。やっぱり、最後はちょっと落ち着いてものを見られるようになってたってことでしょうか。あの部屋とか文若さんの執務室が馴染むくらい」
照れくさそうに眉尻を下げて花は縮こまった。あっちこっち、というのはずいぶんと可愛らしい言い方だ。文若はあえて苦笑した。
「落ち着いたようには見えなかったが」
「だから、ちょっと、です」
「そうか」
「はい」
分かっている。彼女は己の命を繋ぐことに奔走していたのだから。
「あちらのおうちに、文若さんは長かったんでしょう? いろいろ思い出もありそうですもんね」
文若は緩く首を横に振った。
「丞相を追いかけていた景色のほうがより思い出せるがな」
もそもそと言うと、妻の表情が困った笑顔になった。
「それは…えっと、こっちでもあんまり…」
「そうかも、しれん」
「えっと、でも、孟徳さんはわたしがお茶とお菓子を用意しておけば釣れるって」
「…誰が言った」
「その…まだ顔を覚えきれないので」
「そんな戯れ言は忘れろ。乗せられるな。わたしのためだと言われても頷くものではない。いいな」
きっぱり言うと、花は少しだけ迷ったようだったが、頷いた。その迷う様子に、もういちど念を押す必要を覚えるが、盛りの花々と茶の清々しい香りの風が吹き抜けるこの場でなくて良かろう。文若は椀を彼女の前に滑らせた。
「もう一杯もらえるか」
花は頷いて、湯の入った瓶を取り上げた。真剣な目で湯の量を量っている姿にまた笑みが浮かぶ。
そう、記憶など曖昧なものだ。前の邸はひとりで居たことがほとんどなのに、今の邸とと同じに花が居たような気がする。あの木陰に、東屋の椅子に、門のかたわらに笑顔を咲かせていたように思うのだ。…こんな曖昧を、花の故郷は許すまい。
都合のいいことをとこみ上げる自嘲を押し込め、文若は椅子に背を預け、目を閉じた。茶をつぐ音が新しい木立の葉ずれに混じる。目を閉じても思い描けるようになった妻の手つきに、また新しい微笑が浮かんだ。
(2013.8.2)
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