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ラストの花ちゃんの台詞が、リクエストキーワードでした。お気に召していただけますように!!
参加、ありがとうございました。
口からため息がもれて、花は慌てて口をふさいだ。ふだんは優しい家令の老夫人からもさっき叱責されたばかりだ。お気持ちは分かりますが、そうも沈んだお顔をなさっていたと知れてはご主人様も心配なさいますよと。
最もだと思う。だから花は出立の前、文若についていっては駄目ですかと聞いた。彼はその問いが予想できたと言わんばかりの滑らかさで、夫人を伴って視察に行くなど物見遊山と取られると、小さい子にかんで含めるように言ったものだ。手を包み込むように取られ、お前がいるから無事に帰ろうと思うのだぞと追加された言葉はあんまり気恥しくて、上げられない顔のまま、うまいこと言うんだからと思った記憶がある。そんなことを言われたら反論できないではないか。彼のいうことはもっともすぎたから、きっとふてくされたような目でもしたのだろう、山のような、少しばかり難しい手習を置いて行かれてしまった。それもすべて文若の字だったから、ますます何も言えない。花は、膝の上に広げていた夫の衣を握りしめていたことに気付いてあわてて手を離した。
「一か月、なんて…」
文若はとても高い位にいる官だ。その彼が出ていかねばならない視察とはなんなのだろう。文若も悲壮感を背負っていたわけではないから、きっと難しいことではないはずだ。あのひとは無表情と言われているけれど、気持ちが見えないわけではない。孟徳だってそれをわかるから、あんなにからかうのだ。
花は衣をたぐりよせて抱きしめた。彼の使う香はどれも同じらしいけれど、あのひとがしばらく着ていないだけでとても薄くなってしまった気がする。
急に寒くなったけれど、あのひとはちゃんと衣を重ねているだろうか。面倒くさいと思っていないだろうか。食事は取っているだろうか。路銀はきちんと持ったと微笑して出て行ったのだし、まるであのひとを知らない場所に行くわけではないから、相応の扱いをしてもらっているはずだけれど。
そこまで思い出して花は思わず口元をほころばせた。自分はいない間は出仕しなくてもよいと言われたので家にいた花に孟徳ときたら、実にふつうに会いに来た。もう見慣れた庶民のいでたちで出来立ての蒸し菓子を携えてやってきた彼は、あの城にきれいな侍女はいないから安心していいよと笑った。そんなこと心配してません、と唇を尖らせるともっと楽しそうに笑われてしまった。
そうだ、そんなこと考えたことがなかった。ただ、この世界の旅を、誰も安全を保証してくれない旅を知っているから、何事もないように祈るだけだ。思えば、自分はとてもたくさんのシステムに守られていた。定刻通りの交通機関、それを動かすひとたちの安全対策、たくさんの当たり前なこと。すべて自分で気をつけるにはあまりに途方もない危険を、あのひとはわずかな供回りのひとだけ連れて旅立って行った。
花はまた小さく息をついて衣を離した。寝台から降りて回廊に出る。空はどんよりと暗くて、風が落ち葉を揺らしている。花はもう一枚、衣を羽織ると、門に向かった。
この家の前は人通りもそう多くない。耳を澄ませば、表通の馬の蹄の音も聞こえる。子どもがどこかで泣いている。怒られたのか、迷子にでもなったのか。じきにそれは聞こえなくなって、また風が吹き抜けた。どうしてこの時期の風は啼くような声をあげて通るのかしらと花は思った。花の足元に黒い小鳥が来たが、すぐに飛び去っていく。
「まあ、花さま!」
心底びっくりした声に花は振り向いた。花の近くで働いている若い侍女が目を丸くしている。手巾をたくさん入れた籠をその場において、侍女は駆け寄ってきた。
「なにをなさっておいでですか、こんな時分にこんなところで」
「あの…文若さんは今日、帰ってくる予定だったなあと思って」
言いながら、子どものようだと思い花は声を小さくした。侍女はああ、と言いたげな表情をしたが、たしなめるように花の手を取った。
「お気持ちはわかりますけれど、まるで門番のようにこのようなところでお待ちになるなど…お風邪など召されたらどうなさいます」
「はい…あの、分かってるんですけど」
「いいえ、おわかりではありませんわ。ご主人さまがご無事でお戻りになったとしても花さまが伏せっておいでになってはご主人さまの喜びも半減いたしましょう。こんな冷たい手をなさって。」
侍女の手は柔らかく温かかった。しかしそのとたん、文若の手のひらを思い出して花はうつむいた。
彼の手はこんなに小さくない。こんなに柔らかくない。
そのとき侍女が、小さく声をあげて花の腕にふれた。
「ご主人さま」
花は勢いよく振り返った。
もう暮れ始めた空の下、長い影をひいて馬が歩んでくる。供回りの人たちの顔に夕日が濃く陰影を作っている。まだ少し遠い馬上のひとは、花と目が合うと苦笑ぎみに笑った。なにをしている、と聞こえた気がした。
走り出す彼女の先で、彼が馬を下りる。供回りのひとと何か短く話している彼が向きなおったとき、花は抱きついた。
「お帰りなさい!」
「これ、こんな往来で」
はっきりと苦笑している彼の声が頭上で聞こえた。だが肩に置かれた手は彼女を引き剥がさなかった。
土埃と汗と、馬の匂いがする。
「お帰りなさい…」
「ああ、いま戻った」
「おかえりなさい」
「ああ」
本当は顔を見たかった。だが顔をあげる、それだけで泣いてしまいそうで、そしてそれだけはあんまり子どもっぽくていやだったので、花は文若の腰にしがみついたままでいた。
もう風の声は気にならなかった。
(2013.1.11)
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