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文若は妻を肩越しに見下ろした。背に大人しくもたれていると思ったら、眠っている。静かになるとすぐこれだ。
本来なら今日は休みではなかった。降って湧いた休日に、妻は家事をしようと思ったらしい。本人いわく、色々やりたいことがあると言っていた。だが、文若が、新しく購入した書物の整理をし始めるといつの間にか隣にいた。これじゃ職場と変わらないですねと笑いながら、同じように座り込んで簡を揃えていた。家事はどうしたと思ったが、家令の妻はまれに花を孫のように甘やかすので、そういう対応をされたのだろう。
まあ仕方ない、穏やかな日だ。小春日和というのだろう、寒さに縮んでいた邸も、少し肩の力を抜くような暖かさがある。朝にそう言ったのは妻で、文若もそれに頷いたものだ。
問題は、このままの体勢では妻に衣の一枚も掛けてやれない。名を呼んでみるが温かい身体は静かに息づいているばかりで目覚める気配はなかった。最近はそう遅い時間になるような勤務でもなかったし、無理をさせるようなこともなかったと思う。だからこれは、純粋に居心地が良くて寝てしまったということだろうか。それはそれで、温もり以上にくすぐったい。
「風邪をひくぞ」
唸るように言ってみるが、まだ動かない。文若は太い息をついた。妻の方が体調を崩しやすいというのに。伸びやかと言っては美化しすぎだろう、これはやはり迂闊と言わざるを得まい。これもまた、彼女らしいのだが。
何日か前の夜だ。寝入るまで少し間があって、床で簡を読んでいた。花は何をしていただろう。もしかしたら、もう半分眠っていたのかもしれない。しばらくするとさすがに眠くなってきて簡を畳んだ時、見つめられているのに気づいた。
「文若さん。長生きしてくださいね」
やけに熱の籠もった口調でそう言うと花はすとんと眠っていた。
あれは、何だったのだろう。懇願というには涙のない、夢というには甘えのないあの口調は。
むろん、言われなくても長生きしたい。かつては、己がこの手で作り上げたものがいかなる意味を持って受け継がれていくのかを見たかった。だから長生きしたいと思った。おじ上はさぞ煙たがられる爺になるでしょうと、穏やかな口調で文若の決意を祝福した年上のおいには、残念ながらその通りだろうと思われたので反論はしていない。
その彼に最近、おじ上は長生きせねばなりませんよと言われた。彼は、甘い菓子のように皮肉を言うので、その言もそうかと思ったのだが、彼の伏せ気味の表情はいたって真面目だった。
花のことだろうとは、容易に想像がついた。若い妻はこのおいと会った時も警戒心なく、文若の様々なことを聞きたがったらしい。無論、さしさわりのないお話だけいたしましたよとやけに輝く笑顔で言われたことがある。それが彼なりの気遣いだと分かったので、礼を言うだけにした。
――花のためにも。
いや、それでは言い訳にしてしまう。花を見ていたいだけだ。あれだけが、理屈なくこの胸に住んだ。そうして理屈のない心地よさを、新しい光で照らした。今もこの柔らかさをうっかり楽しんでしまいそうな、ただの愛しさだ。
花も、こんな年上の男と添って不安だろうか。己が居なくなればただひとりで放り出されると怯えたか。そこであのにやけた上司に頼ろうと思わぬだけ良い。
そうだ、一緒に長生きしましょうねとお前は言うべきなのだ。己も、花が居なくなればただ放り出されたような気持ちになるだろう。見飽きた空、馴染んだ衣であっても、ただお前の手が眼差しが触れたというだけですべてが己を拒むように思うだろう。
文若はそっと半身をずらした。妻の身体が抵抗なく腕の中に滑り落ちてくる。薄目を開けてこちらを見上げた彼女に、文若はせいぜい厳しい表情をしてみせた。妻はほわ、と口を何度か開け閉めしたが、すぐに笑った。猫のように文若の腹に顔をこすりつけてくる。
「これ、起きなさい」
「もうちょっとお願いします」
「何がもうちょっとだ」
膝の上に弾力ある身体を感じる。それは柔らかくて心地よい。これでは足が痺れると思いながら、文若はくすくす笑うばかりで動かない妻の背を撫でた。
(2014.2.17)
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