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近頃、職場の近くに引っ越してきたご家族の犬さんがとっても人なつこい。すごく可愛いのですが、大きい体であそんであそんでと吠えられるのはちょっとこわいです…
今日の更新は、文若さんと花ちゃんです。
「影をかさねて」 の翌日のお話です。
では、どうぞ。
文若は筆を止めた。眉間を揉む。
部屋に簡を持ってきた文官が不思議そうに室内を見回した。
「どうした」
「あ、いえ」
慌てて首を振り、放り出すように簡を置いて退出していく男を、不機嫌な思いで見る。花が目当てに違いない。あの娘は、みなに笑顔を惜しみなく振りまく。それでこの部屋の雰囲気が良くなったことは認めざるを得ないが、それで花の人気ばかり上がるのは困る。
…だが、花がいないと執務室が広い。
文若は窓から庭を見た。昼過ぎの眩しい日差しに、紫の花が重たげに揺れている。回廊を文官や警護の兵士たちが忙しく過ぎていく。
あの中にも昨夜、思い人と過ごした者が居るかもしれない。そう考え、自分がそんなことを思う日が来ようとは、と苦笑を浮かべる。
…ただ、こんなにも離れがたいものなのかと思った。
起こさないように出て行こうと思ったのだが、眠る頬にどうしてももう一度触れたくなった。触れてしまったら、瞳が自分を見るのを確認したくなった。余韻に溶ける目が自分を認めて微笑むのを見ると、触れている指先が熱くなる気がした。
(ぶんじゃくさん…?)
掠れた声を、どうしてもっと聞きたいと思うのか。
(花)
(帰る、んですか…?)
(ああ)
花の手が動き、頬に触れている文若の指に重ねられた。文若は狼狽えた。
(どうした)
ふふ、という笑い声が急に大人びて聞こえた。
うす闇なのに、その唇が濡れて紅いのがはっきりと分かる。照れた声に胸が熱い。だるそうに身を起こすのを慌てて止める。
(寝ていなさい)
(でも、帰るんでしょう…)
だからどうしてそんなに心細そうに言うのだ。明日、というか今日の昼にはまた会うのに。
(今日は寝ていなさい)
(それじゃ、文若さんに会えません)
(…仕事に来るのだぞ?)
咳払いをして言えば、花はとろとろした表情でいながら済まなそうに首をすくめた。
(すみません)
(…いや)
いま考えれば、あんな釘を刺すような言い方をしなくても良かった。彼自身、こんなことを思い出しているのだから、彼女が実際にここに居たら、意外と細い腰、男である自分とまるで違う肌の感触、懇願するようなすすり泣きを思い出して仕方在るまい。どうかしている、ときっぱり思い切るように首を振り、目の前の簡に意識を戻す。
そのとき、すっかり馴染みになった、軽い衣擦れの音が聞こえてきた。
「花ちゃーん!」
「丞相、仕事にお戻りください」
喜色満面で飛び込んできた上司に、もはや条件反射となった言葉を返す。疑り深そうにむっつりと黙った孟徳は、執務室を見回してこれ見よがしなため息をついた。
「居ないんだ~。つまんない」
「彼女は、あなたの目を潤すためにここにいるわけではありません」
「だからあ~俺の側付きにするって言ったのにい~どこかの堅物石頭が~自分の側で仕事をさせたいからってえ~そんなことは彼女でなくてもつとまるでしょうとかあ~」
鈍い音を立てて筆の先が折れた。
「彼女の意志です」
「あーあ、なんで花ちゃんはこんな細目がいいのかなー」
うふふ、と楽しげな笑い声が戸口でして、ふたりは同時にそちらを見た。孟徳の顔が輝く。
「花ちゃん!」
「こんにちは、孟徳さん」
微笑んだ花の細い腰を抱き込んで髪に頭をすりつける上司のだらしない顔に、硯を投げつけそうになる。文若は咳払いをした。
「…具合が悪いと聞いたが」
「え? ええ、でも、大丈夫です。遅れてすみません」
花が、柔らかく頬を染めて頷く。孟徳がその頬を撫でた。
「なーに、過労? この細目の下でこきつかわれてるんでしょ。だから細目は止めろって言ったのに」
「わたしの目は関係ありません」
「孟徳さんってば」
花が笑いながら柔らかく彼の腕から抜け出し、文若の机の側に来た。
「届けるものはありますか」
「あ、ああ。…こちらは、その題箋のところへ」
「はい、分かりました。じゃあ孟徳さん、失礼しますね」
「うん、行ってらっしゃーい」
ひらひらと手を振って、彼女の行くほうを未練がましく追っていた孟徳は、文若を振り返った。
「なーんだ。ずいぶん上手くいってるようじゃないか」
その声が、羨望とも労りともつかない色だったので、文若はつかの間、言葉を忘れて上司の顔を見上げた。
「本当に、お前みたいなのを大事にしてくれる女の子なんて貴重だ。というか奇跡だ」
裾捌きも美しく戸口まで歩いていった孟徳は、振り返って唇の端をきれいに持ち上げた。
「翌朝の衣はちゃんと用意しておいて貰わないとなあ?」
思わず立ち上がった文若を面白そうに見、紅い衣はひらりと消えた。足音が聞こえなくなってからぎこちなく腰を下ろし、何故、と声に出さずに呟く。そこに、また聞き間違えようのない足音が戻ってきた。
「ただいま戻りました! …あれ、孟徳さんはもう帰ったんですか?」
ぼんやりと花を見ると、よほど間が抜けた表情をしていたのか、にわかに心配そうに花は文若の側に立った。
「どうしたんですか?」
何も考えられずに、その顔を見上げる。花は不思議そうに見返して来たが、すぐ、にこりと笑った。
頬の染め方が前より柔らかいように見えるとか、微笑みが匂うようだとか、彼女から香るのが自分の移り香のような気がするとか。
「…わたしだけが分かっていればいいのに」
「文若、さん…?」
自分の呟きに我に返る。咳払いすると、可笑しそうな色が加わった笑みが返された。
「何でも、ない」
「そうですか? それならいいんですけど。…じゃ、お仕事に入りますね」
「ああ」
…子どもの頃からいくつも、本を読んだ。そうして、いにしえの知識を己のものとし、それを糧にここまで来た。しかし、そのどれとも異なるように思えるこの事態はどうしたことだろう。
どの詩にも、こんな愛らしい声は描かれていない。
どの絵にも、これほど甘い微笑みは讃えられていない。
花がいつもの場所に座る。自覚無く目で追っていたらしい、視線を捉えて恥ずかしそうに見返してくる。
(これは本当に己の恋なのだ)
彼は再び、手元の簡に目を戻した。その口元がかすかに笑んでいるのを、向こうに座った彼の思い人だけが見ていた。
(2010.6.10)
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