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まず、目を上げたのは息子だった。父ゆずりの細い目をいそがしく瞬かせる。花も首を傾げた。
「母上」
少し怯えたように掛けられた声に、花も声を低くした。
「…お前にも聞こえる?」
息子は不安そうに首を巡らした。
風は少し寒いが、一カ所だけ開けた扉からは花の香りが漂ってくる。息子が選んで植えた木だ。それをこの庭に植えてからというもの、気づくと彼はその木の下で花の数を数えている。 妙な音はそちらから聞こえてきた。
ようやく終わった冬に、花は本当に安心していた。この冬は文若が大きな風邪をひいて気の休まる暇がなかった。彼が弱ると息子は寝付かなくなるし、娘は機嫌が悪くなる。やっと終わった季節に、文若の軽い衣でも新しく仕立てようと侍女たちと相談していたところだった。今日も、その手配で東屋にいた花のところに息子がやってきた。ほんとうは夫が教えている手習いを、間違いがないか見て欲しいとやってきた彼は、花の匂いがいいからと言って窓を開けた。年かさの侍女によると、そんなことをするのも年少のうちだけと笑っていた。そんなものだろうか。少し寂しい。
がこがこ、というか、ぼこぼこ、という変な音は途切れがちに聞こえてくる。しかも近い。木箱を地面に叩き付けているような音だが、そんな工事の予定も聞いていない。
息子は筆をおいて、窓辺に立った。その背が途端に、猫のように跳ねる。
「母上!」
花は急いで彼に並んだ。指さす先を見て、口を開ける。
幼い娘が、回廊をよろよろ歩いていた。さっきまで昼寝していたはずなのに、いつ起きたのか。しかも、いつも付き添う侍女の姿もない。花は慌てて東屋を出た。娘は花がいなくてもよく眠るので、添い寝はつい、侍女に任せてしまう。
娘は、駆けてきた花を見てくしゃくしゃと笑った。危なっかしく庭におりる。
「ははうえー」
よく見ると、娘は寝るときの衣のままだ。いまの季節、それではまだ寒い。花は自分の上衣を脱いで小さい体をくるんだ。
「駄目でしょう、服をきちんと着ないと!」
「だっこー」
舌足らずに甘える娘を抱き留める。追いついた息子が、あ、と小さく言った。
「こいつ、父上の靴を履いてる」
「え?」
よく見ると確かに、娘は文若の庭用の靴を履いていた。出仕用の靴が冬のあいだにすっかりくたびれたのを家用におろしたのはつい昨日だ。木靴は実用一辺倒の黒で、娘の興味をひくような飾りはない。娘は花の頬に頬をすり寄せた。
「ちちうえなの!」
花は娘の肩をつかんで引き離し、得意満面のその顔を睨んだ。
「駄目でしょ。父上の靴を履いては」
娘は途端に不服そうな顔になった。
「だめ?」
「だめ。」
「ちちうえのくつ、おっきくておもしろいんだもん」
娘は、がこがこ、と両足をうち鳴らした。妙な音の正体はこれだったのだ。家は、庭以外は石敷きだから、こういう音は大きく響く。
自分も同じことをしたなと思う。木靴ではなく、父のサンダルだった。ぱこぱこと間抜けな音がするのが楽しくて、そのへんを走り回って転び、膝をすりむいたような気がする。
この庭はアスファルトよりもっと怪我しやすい、石や低い木々がたくさんある。転んだ拍子に膝をすりむくくらいならいいが、枝で目をついたり、歯を折ったりしたらたまらない。鋭く胸が痛んで、花は胸元を押さえた。大きな心配をかけたことが分かったのに、それを感謝する相手にはもう会えない。彼女は歯を食いしばるようにして娘に怖い顔をしてみせた。
「だめなものはだめ。危ないから」
うー、と娘はより不満そうに唇を尖らせた。花が靴を脱がせ、息子がその靴を持つのを恨めしそうに見る。抱き上げられた娘は宙で足をぶらつかせた。
「はきたいー」
「大きくなったらね?」
「おっきくなったらこういうくつをはいてもいい?」
「大きくなったら・ね。」
成長した娘が黒い靴しか履かないと言いだしたらどうしようとも思うが、とりあえずそう返事しておく。娘は花の首にしがみついて、おおきくなったらーおおきくなったらーとでたらめに歌った。
ふと振り返ると、息子が、手に持った父の靴をしげしげと見ている。黙って見ていると、彼は自分の足もとを見下ろした。子どもらしい刺繍のある自分の靴と、父の靴を黙って見比べている息子に、花は微笑んだ。名を呼ぶと息子は、はっとしたように顔をあげて父の靴を持ち直した。
「落とさないようにね?」
息子の頬の線が引き締まる。他のどんな手伝いを頼んだ時より真剣な顔になって、彼は頷いた。
「ははうえ、おかしがたべたい」
すっかり機嫌を直した様子で肩口でねだる娘に、息子がむっとした顔を向けた。
「さっき食べただろ」
「たべたい!」
「じゃあ桃茶にしましょうね」
乾燥させた桃を白湯に落とした「桃茶」は、子どもたちのお気に入りだ。甘いお菓子といっても花が育った世界に比べれば健康な物ばかりだが、食べ過ぎるのは良くない。もっとも、こういう心配ができるのも文若のおかげだ。
「もも!」
娘が嬉しそうに声をあげた。幼い自分も、菓子にこんな声をあげていただろうか。花は娘を抱き直した。
親にはもう会えないのだ、と何度も思った。それでもこうして、いまの自分を伝えたいと願う。せめてわたしは、文若から預かったこの子らを大切に育てよう。いまはまだ覚えている、あなたたちの願いのように。
屋内から走り出て来た侍女に湯の支度を頼み、花はふたりを連れ暖かな家へと歩き出した。
(2012.6.12)
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