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文若さんと花ちゃん。婚儀後しばらくして…かな。「吹き迷ふ」となんとなく対です。
文若の吐いた大きな息に、花が勢いよく顔を上げた。その拍子に灯火が揺れて彼女の影が執務室の壁に長く伸びる。
「帰るぞ」
告げると、どことなく眠そうな彼女の顔が明るくなった。
「はい!」
掛け声のような返事とともに立ち上がった花は、もうすっかり薄くなった茶が置きっぱなしになっている盆を取り上げた。厨房まで戻しに行くのだろう。回廊を駆け出しそうな様子に、文若は彼女に声をかけた。
「回廊を走るなよ。」
途端に花は背を伸ばして、彼を振り返った。子どもっぽい不服さの混じった表情でこちらを見上げてくる。
「走りません!」
胸を張るようにして言う彼女に、笑みが浮かんだ。疲れているところに、先を見越したようなことを言われたので思わず、といったところだろう。彼は軽く咳払いした。
「それならばよいが。このような時間に、わたしの部屋から出てきた者が回廊を走れば、それはたいそうな大事ということだからな」
花の表情が急に神妙になり、肩が丸くなった。
「分かりました。」
扉を必要以上にしとやかに開けて出ていく花の足音が遠ざかると、文若はまた息を吐いた。机の上の文具類を纏める。丞相の思いつきときたら、毎回、大変に複雑だ。自分は立場上、やみくもに振り回されてはならないが、それでも考えていけば良い案だと頷かざるを得ないのだから恐ろしい。
彼は、部屋の隅の灯火を消した。途端に、部屋に漂っていた気だるさのようなものが沈んでいく。これは、なかなか言語化できない感覚なのだが、人けがなくなるというのはこういうことなのだろう。
彼はふと、もとの都を思い出した。まったく人がいなくなったわけではないだろうが、自分たちがいたころよりは確実に衰退しているだろうあの街は、いまどうなっているか。いつか妻と話したように、まだあちらに自分がいるような感覚はようやく薄れたが、あの街を懐かしむ気持ちはこれからも消えないと思う。自分は妻がその景色に居る限り、欠けた茶碗でさえ惜しむのだろう。まったく、これでは丞相を笑えない。
ぱたぱたと軽い足音に、文若は扉を開けた。花が大きな目を丸くして扉の前で立ち止まる。
「すごい、分かったんですか?」
「夜だからな」
時刻のせいにして言うと、花はことりと首を傾げたが、すぐ、開けてもらってすみませんと笑った。
「すぐ片づけますね」
「急がなくていい」
花は慣れた手つきで己の文具を手箱にしまっていく。最後に机の上を見渡した彼女は、ひとつ頷いた。
「お待たせしましたー」
「では、帰ろう」
「はい!」
帰るという言葉になぜ彼女がこれほど嬉しげなのかは、いまもって少しばかり不可解だ。けれどおそらく、自分と彼女では、感情の方向が異なるのだ。彼女とふたりきりであれば、自分は、何か柔らかい、温かいものに沈み込むような穏やかさを感じる。その温かさのもとが、彼女の嬉しさなのかもしれない。だからつい、彼女を留め置いてしまう。妻として邸で迎えてくれるのも嬉しいが、手伝ってもらう嬉しさもあるのだ。
ひとつだけ残った灯火を手燭に移し、扉を閉める。暗い回廊を歩きだしてしばらくすると、花が文若の袖を引いた。
「なんだ?」
「文若さん、虫です」
「なに?」
頼りない月光と手燭の合間で、花の瞳が煌めいている。
「あの声って、秋になる時に鳴く虫に似てます。こっちでもそうですか?」
夜には何かがうずくまっているようにしか見えない中庭の植え込みを指さし、花は言った。確かに、かぼそく虫の声が聞こえている。
「そう…かもしれぬ」
「やっぱりそうなんだ。ああもう、秋なんですねえ!」
両手を打ち合わせるようにして言う彼女に、目を細める。
「今日の昼間はまだ暑かったと思うが」
「でもそう思ってみたら、ちょっと涼しい気がします。嬉しいな、早く秋にならないかなあ」
なぜそんなに嬉しいのかと問いかけて、そう言えば妻は暑さにことのほか弱いと思い出した。邸ではまったくあられもない姿で寛いでいたものだ。彼はことさら厳めしく彼女を見下ろした。
「季節の変わり目は気を付けなければならんぞ。お前は、特に」
「はあい」
首をすくめて応じた彼女はすぐ笑顔に戻った。どこか甘えるような笑顔だ。
「お腹がすきました~」
「家の者が用意していてくれるだろう」
「甘いものもあるかなあ」
「夜に食べると太るとか言っていなかったか?」
「そうなんですけどー」
足音がゆっくり揃っていく。そう言えば、寒くなると妻は自分にくっつきたがると思い出し、灯りの影で彼はひとり顔を赤らめた。
(2014.10.10)
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