二次創作。はじめての方はat first はじめに をご一読ください。
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かんう、と読むそうです。春の季語だそうで、「甘」は、満足する、心地よいという意味があるとか。古来春の雨にはなんともいえない甘さがあるといわれているらしいです。
誰かさんの「春」に。
かたん、と椅子を引く音がして文若は目を上げた。花が緊張した面持ちで彼の机の前に立つ。
「文若さん、見てもらえますか」
「見よう」
手を伸ばすと、花がその上にそうっと竹簡を置いた。
この国の字をもっと書けるようになりたい、と言ってきた彼女に、手本を与えた。子どもが最初に習うような簡単なものだが、彼女はずいぶん悪戦苦闘していた。文若はいちいち指示したくなるのをぐっとこらえて彼女の背を見守っている。
本当は、この執務室にすら居させたくない。自分の部屋だけに置いておきたい。この執務室に出入りする多くの部下や同僚は衝立の向こうの花に興味津々で、そのうえ花がまた、彼らに話しかけられようものならにこにこと応対する。それに気をよくして彼女に会いにくるためにどうでもいい内容でやってくる馬鹿者もいるくらいだ。そのたびに文若は、いらいらと机を叩く。
しかしそんなものよりも厄介なのは、彼の上司だ。
花ちゃん花ちゃんとまとわりつき、遊びに行こうお茶を二人だけで飲もう西のきれいな首飾りが手に入ったから掛けてみないかなど、日のうちどれだけの時間、ここに居ようとすることだろう。いい加減にしてくださいと怒声寸前の文若の声にも、やだねオジサンが嫉妬してるよー花ちゃん助けてーと彼女に抱きついたりする。自分の部屋になどおいておいたら、いつ連れ出されてしまうか分からない。花の心を信用していないのではない。花では、孟徳に勝てない。
思い出して太いため息をつくと、彼女がびくりとした。文若は慌てて首を振った。
「お前のことではない。」
小首をかしげる様子に、またため息をつく。さらりと揺れた髪の一筋にまで目を奪われることに、今更ながらうろたえてしまう。
「今日は丞相がいらっしゃらないから静かでいい。」
ぶっきらぼうに言うと、ああ、と彼女は悪戯っぽく微笑んだ。窓の外を見て目を細める。
「雨だからでしょうか」
「? 雨が何の関係がある?」
本気で疑問に思った彼に、花はうろたえたように首を横に振った。
「いえ、孟徳さんって紅い服をきているでしょう? お日様みたいだから」
文若は苦虫をまとめて千匹くらい噛み潰した。
「…お前も来て欲しいと思うのか」
ぼそり、と言った言葉は花には届かなかったらしい。怪訝そうな表情を浮かべただけだった。文若は咳払いをして手元に目を落とした。
彼女が詩文の手習いをはじめて、今日で三日目だ。
「よく、書けている」
「本当ですか!」
「しかし、ここが間違っている。この横棒が一本多い」
へにゃり、と花の眉が情けなそうに下がった。文若は慌てた。
こういう時、どこまで言っていいのか分からなくなる。ただの部下ならば、鍛えるのみだ。だが、花は違う。
文若は背を伸ばした。
…違うが、違わない。ここで下手な情けを掛けては、花の気持ちを踏みにじることになる。
「ここも縦の線が足りない。あとは、全体に急がないで書くといい。焦りは字に現れる。相手を説得したい時などは不利だ」
「はい」
緊張した面持ちで花が頷く。
「だが、お前なら、必ず美しく書けるようになる。」
「ありがとうございます!」
彼女が、ぱっと笑顔になった。つかの間、文若はそれに見とれた。
花の笑顔は、部屋を明るくする。今日のような冷たい雨の降る薄暗い日でさえ暖かくなる。
そう思いかけて文若は顔を赤らめた。彼女から目をそらす。
「疲れたろう。茶を入れよう」
「あ、わたしがいれます」
「いい。火傷でもされたら」
立ち上がった彼はふと、彼女を見つめた。沈黙に、花が怪訝そうに小首をかしげる。
「文若さん? …きゃっ」
「どうしたんだ、これは」
文若が掴んだ彼女の白い指は、黒く汚れている。花が顔を赤らめた。
「す、墨がうまく擦れなくて…濃いかな、薄いかな、って何度も試し書きをしているうちに分からなくなっちゃって、汚れてしまいました。あ、お茶をいれる時はちゃんと洗います!」
慌てて弁解する花の手を自分の手にのせる。
「…あ、あの、汚れます」
「いいから、じっとしていなさい」
彼は胸元から手巾を出した。彼女の白い指についた汚れを、丁寧に拭っていく。花が耳まで紅くなった。
小さな手だ。華奢な指は、筆を始終使う自分のようにたこができていない。深窓の姫君のように滑らかだけれど爪紅もない指、彼女そのもののように素直な手。
「墨の擦り方までは教えていなかったわたしが悪い。」
「い、いえ…」
「お前の国では、墨を使う習慣はないのだな。」
「はい。墨汁、っていって、瓶に入って売っています」
「ほう、便利なものだ。」
「文若さんの墨は誰が擦っているんですか?」
「部下が用意している。なにしろ、書く量が多い」
「…用意できるようになりますか」
思いがけず真剣な声音に、彼女の顔を見る。視線が合った花は、困ったように笑った。
「書き取りを合格するのは時間がかかりそうなので…それくらいなら、早く文若さんの役に立てるようになりますよね?」
文若は拭う手を止めた。あまりにまじまじと花の顔を見るので、彼女が段々不安そうになる。
「駄目ですか? …きゃ!」
突然手を強く握られた花が、驚いて背筋を伸ばした。
「そんなことのために残って欲しかったのではない。」
言い切る文若に彼女が俯く。
「お前は…違うのか?」
「違い、ません。…でも、そうすると…文若さんと一緒にいる時間が減ってしまうから」
なに、と文若は口だけ動かした。
「朝は朝で早くから孟徳さんたちと会議だし、夜はお仕事が大変でお帰りも遅い、って侍女さんが言っていました。今だってこうして文若さんのお仕事の邪魔をしない限り、文若さんと居られる時間なんてほとんどなくて…わたしがこんな理由でこの部屋にいるのを良く思わない人がいることを聞いていますから、文若さんが悪く言われないように、わたしも文若さんの手助けをしたいんです。」
段々早口になる声を飲み込むように固く唇を結び、花はまっすぐこちらを見上げた。寂しそうな、それ故に愛しさの増す瞳で見つめられ、文若の息が止まる。
「そう思うのはいけませんか。」
文若はまじまじと花を見た。
花が、文若や孟徳のひいきで振る舞っていると言う者がいることは知っていた。だが、それが彼女の耳に届いているとは知らなかった。不愉快なことはなにひとつ、彼女の裳裾を揺らす風ほどにも触れさせたくはなかったのに。
文若は、たぐり寄せるように花を頭から袖の中にくるんだ。花は肩を強ばらせたが、すぐ力を抜いた。
「お前の、気持ちは嬉しい。」
一言ひとこと、確かめるように文若は言った。はい、というささやきが胸に響く。
「だから、焦らなくていい」
「え?」
「きちんと時間を設けて、お前を教える。食事もお前と取る。だから…焦るな。お前は、わたしになる必要はない。」
「俺も文若がふたりは嫌だなあ」
突然割り込んできた声に、文若は花をより深く胸に抱きかかえ、眉間に皺を刻んで振り返った。孟徳が扉に寄りかかって立っている。彼はにこり、と笑って花に片手を振った。
「あ、でも、文若。俺に書簡を届ける係は花ちゃんに任命してね。でないと印を押さないよ?」
「嫌です」
「うわ、即答。」
「他の者でもつとまることです。それに、彼女はわたしの側にいつもいて貰わないと困ります。」
その言葉を聞いた花は、孟徳を睨み据える文若の横顔に安心したように笑い、寄り添った。孟徳がそれを目敏く見て目を細める。
「そうそう、そこの廊下の角で、花ちゃんに付け文しようってヤツが二人、待ってるよ。」
眉間の皺をより深めた文若の袖を、花が引いた。我に返って腕の中の彼女を見下ろすと、花の指がとん、と文若の眉間をついた。
「そんな顔しないでください。わたしは文若さん以外から何も受け取ったりしませんから。」
だから、と花は小声で続けた。
「わたしは、わたしのまま文若さんの側に居ていいんですね。」
「…ああ」
抱きしめる花の向こうにいる孟徳を見据えると、彼は肩をすくめた。紅い衣が翻り、扉が閉まる。
窓の外には雨が降る。
その音よりも高く聞こえる愛しい鼓動を、文若はいつまでも抱きしめていたい衝動にかられていた。
「うっふっふ~」
「…」
「ふふふ~」
「気持ち悪いぞ孟徳」
「文若と花ちゃん、早く一緒にならないかなー」
「…お前が素直に祝福するとはな」
「だってそうしたら、花ちゃんと文若でもっと楽しめるじゃないか! とりあえず婚儀の準備だよ、魏の精鋭が着飾らせてあげちゃうもんね! 子どもも可愛いだろうなー花ちゃん似の女の子とかいいよね! お嫁さんに貰っちゃおうかな」
「…まだ婚儀をあげてもいないぞ」
「小さいうちからかわいがって、お嫁さんになるなら丞相さま!とか言わせちゃったりしようかな。楽しみだな~」
(…文若、花、頑張れよ…)
(2010.4.21)
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