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kayさま、リクエストありがとうございました。おかげで「カレ」にも名前がつきましたです。
江建は、控えめに扉を叩いた。入りなさい、と落ち着いた文若の声が返る。扉を開けると、元譲がこちらを見て小さく頷いた。だがその部屋に足を踏み入れた途端、彼は礼儀を忘れ苦笑してしまった。
こちらに背を向け、子どもがするように窓から身を乗り出しているのは、赤の衣も鮮やかな丞相・孟徳だ。今にも窓から落ちそうだが、かたわらの元譲が身構えているのでそれはないだろう。自分も、やっと落ち着いた世の中で順調に出世できるはずだから、こんなところで丞相に死んで欲しくない。
「ああ、花ちゃんが俺の侍女たちと笑ってる…」
丞相が、羨ましそうに嬉しそうにしみじみと言う。そんな理由だったらなおさら死んで欲しくないな、と江建はのんびり思った。
花ちゃんと呼ばれた娘は、彼も顔見知りだ。というより、文若に関わるなら知らない者はいない。
いつも生き生きした大きな目でこちらをまっすぐ見て、ころころ笑っている。だから元気がない時はすぐ分かる。それほど表情豊かで見ていて面白い。何より、あんな風に全身で恋を訴える娘を、江建は知らない。都も宮中の女性もそれなりに見て、人並みに遊んでいる彼には、花は西域の舞曲のようだ。耳に新しく楽しく聞こえるが、歌詞は聞き取れない。結果、聞き取ろうと耳を凝らしてしまう。幸い彼は胸が大きい色っぽい娘が好みであったので、花は上司である文若と対になる非常に興味深い存在、というだけだ。花と言葉を交わしているだけで文若が睨んでくるのも面白い、という程度である。
その文若が大きく咳払いをした。
「丞相、仕事にお戻りください」
「かっわいいなあ」
「丞相!」
江建は首をすくめた。文若は江建のような部下に対し、叱責も静かに理を説くやり方をするので、この雷は丞相にしか落ちない。しかしすごい迫力だ。これを落とされて姿勢を変えない丞相と、顔色を変えない元譲も凄い。
ふわふわと孟徳の声が続く。
「可愛い女の子たちが可愛い格好できゃっきゃ言ってるのは本当に心が和むなあ。ああ、ここに連れて来て一緒にお茶をしようか。」
「仕事がより進まないでしょう」
「…同じことだ」
「部屋においておくだけ姦しく、邪魔です」
元譲と律儀に会話をする文若を、丞相がうっそりと振り返る。
「うるさいなあ文若は。いいじゃないか花ちゃんを眺めるくらい」
「仕事を進めてください」
「お前は花ちゃんと一緒の部屋で仕事してるしさ、花ちゃんといい感じにくっついてるんだしさ、なんでもできるだろ? 俺は違うし」
文若の眉間の皺がより深くなった。
ああやっぱり、と江建は思った。上司の顔が素直に紅くならないのは、ここに花がいないからだ。花がいたら真っ先に彼女が顔を紅くして孟徳をたしなめるだろうし、それにつられて文若も紅くなるだろう。それが面白いのにな、と彼は抱えていた簡をこつんと唇に当てた。本来なら簡を置いてさっさと退室するべきだが、こんな面白い会話を聞き逃す手はない。
「なんでも、とは心外です。わたしは節度は弁えております」
堅い声をまったく気にした様子もなく、だらだらと孟徳は呟く。
「あの柔らかいほっぺたをふにふに突いたり、すべすべした首筋に口づけしたり、あったかい指をぎゅっと絡ませてみたり、可愛い声で文若さんって呼ばせたりしてるだろうが」
「最後のは確かに執務中は名を呼ばねばなりませんのでその通りですが、頬を突いたりなどは」
「俺はここにやってくる彼女を捕まえるしかないんだから」
文若が、すう、と息を吸った。ただでさえ細目細目と言われている目が、さらにうすくなる。
「…わたしの記憶によれば、昨日、回廊で花と立ち話をしておられたのは丞相と思いますが。」
「見間違いだろう」
「そうですね、昨日は来客がひっきりなしにあったはずですから。では、丞相のもとに遣いに出していない花が、丞相から頂戴したという菓子を持って嬉しそうに帰ってきたのは何故でしょうね。」
「不思議だなーどうしてかなー」
「納得のいくご説明をお願いいたします」
文若だけが怒っている。丞相は椅子にだらしなく座って拗ねた顔で頬杖をついているし、元譲の無表情も変わらない。
「花ちゃんはまだお前の妻じゃないんだからうるさい」
ぼそりと落とされた言葉に、文若の表情が固まった。江建は心中で舌を出した。文若のこの弱点を堂々と突けるのは、この国広しと言えども孟徳だけだ。
実際、不思議だった。思いを懸ける娘を男に立ち混じって働かせ、そのくせ、少しでも世間話をしようものなら殺せそうな視線を送ってくる。そんなことをするなら、さっさと屋敷に引き取ってしまえばいいと嘆く同僚もいたが、その男はただ単に花に横恋慕しているだけなので、江建は聞き流していた。
その時、ついと孟徳の視線が江建に流れた。彼は慌てて礼を取って目を伏せた。
「そこのお前。お前もそう思うだろ?」
面白がったツケが回ってきたか、と彼はかすかに唇を歪めた。ただ、より深く頭を下げる。朗らかな声が部屋に響いた。
「いいぞー忌憚なく意見を言え。ついでに文若がどれだけ自分を働かせてるか恨み言を言っても構わん」
「丞相!」
「では、恐れながら」
江建は顔を上げた。孟徳は面白そうな顔でこちらを見ている。
「わたくしの目にも、花殿が愛らしく見える時がございます。しかしそれは、令君とお話されている時や令君のために茶を用意されている時、また、令君に襟の具合や纏めた髪のほつれを直してもらっている時、一心に案件を整理しておられる令君を見つめている時など、常に令君が側においでです。自分はそれゆえに花殿は可愛らしく在り、またより美しくなると肝に銘じております。」
孟徳が、筆の尻で卓を叩いた。江建の視線の先で、に、と唇を歪める。
目の端で、文若の顔色が青くなったり赤くなったりしているのをきちんと確認し、江建は頭を下げた。元譲がふう、と息を吐いた。
「文若に近い部下だけあって、よく確認してるな。」
見かけはのんびりとした声が彼の頭上を過ぎる。虎の尾は幸い、踏まずに済んだようだ。
「江建、簡を置いて下がれ」
唸るような文若の声に、彼は音を立てないよう卓に簡を置き、後ずさった。文若の傍らを通り過ぎる時、かすかな囁きが聞こえたがそのまま扉を閉め、回廊に出る。思わず、ため息が漏れた。
済まぬと文若は囁いたのだ。
「…敵わないなあ」
かなり不遜なことも言ったのに、済まないなどと言われては自分がずいぶん小さく思える。
それでもやはり、面白い。丞相にとって「彼女」は、自分のような者がいても話せる話題だということだ。これから文若の執務室に行って、花にことの次第を話してみようか。その程度には、自分もまた、彼女を気に入っているのだなと自覚し、苦笑する。彼は急ぎ足で歩き出した。
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