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ん、という自分の寝言に目を覚まされる。
ぼんやりしたままあたりを見回すと、見慣れた執務室だった。いつのまにかうたたねしていたらしい。記憶が途切れる前まで見ていた簡は机に広げたままだが、筆はきちんと脇に置いてあった。文若はゆっくり背を起こした。
背から衣が滑る感触に目をやれば、薄衣が椅子の背もたれにわだかまっている。花か、と文若は微笑した。朝夕に涼しさが増し、彼女にもじゅうぶん注意するように言っている。実際、真夏よりこういうときに体調を崩す者も多いのだ。まして、たいそう便利な物に溢れたところから来た花は夏もずいぶん辛そうだった。真夏に、自室ではおそろしく露出の高い『きゃみそーる』とかいう自作の衣を着ていて目眩を覚えたものだ。
薄い衣をたぐると、それは思ったとおり彼女の肌の香を伝えた。このような気遣いをさせたところをみると、自分はずいぶんきちんと寝入ってしまったらしい。おおかた筆も、彼女が手から外してくれたのだろう。
さて、その本人はどこだ。使いに出すような指示はしていなかったはずだが、自分が寝ていたので気を使ってどこかへ仕事を探しに行ったろうか。元譲のところくらいならいいが。こういう心配をするたびにさっさと娶るか、出仕をやめさせればいいと呆れ顔で忠告する元譲の顔を思い出す。
「花。…花、居ないのか?」
呼びかけた声が妙に寂しく響いて、彼はぞっとした。そのとき、扉がちいさく開いた。彼女かと思ってみた隙間からは、きっちり彼女の背の高さに、妙ににやけたあるじの笑みがのぞいている。彼は瞬時に眉間にしわを寄せた。
「何をしておいでですか」
「かわいい花ちゃんを見に来たとこ。」
「ご覧のとおり、彼女はおりません」
「そうみたいだなー。」
相変わらず隙間から話す孟徳に、文若は立ち上がって扉を大きく開いた。孟徳が背を伸ばす。
「他にご用がなければ、お戻りください」
「そうだな。花ちゃんを捕まえがてら、戻るか」
いつもながら聞き捨てならないことを言うあるじに、息を整える。
「彼女にご用でしたら謹んで承ります」
「なんでお前を通さなきゃならん。俺は花ちゃんと話したいんだ。」
やけにすがすがしく胸を張る上司を見据える。
「ですから、何のご用でしょうか」
「花ちゃんの国の話。」
「でしたらわたしも同席いたします」
「お前がいたら花ちゃんを独り占めできない」
「…丞相」
「さっき」
ふいに彼の声音が変わったので、文若は瞬きした。
「俺は東屋でうたたねしてた。相変わらず頭が痛くてな。ああ誰か来るなと思ったが、ずいぶん軽い足音だったし侍女でも来たんだろうと思った。そうしたら、お疲れ様です、って花ちゃんが囁いてくれた。それからは、ごく短い間だったけど、ずいぶん気持ちよく眠れたな。」
孟徳の視線が、文若が抱えたままだった薄衣に落ちた。
「お前には衣か。」
「…でしたら、何です」
「べっつにー。あーあ、花ちゃんがもうひとり流れて来ないかなー」
二人もいてたまるか。文若は咳払いした。
「丞相は、二人いたらいたで、どちらも手に入れたいとお思いになるのでしょう」
ふん、と孟徳が鼻を鳴らした。
「お前が言うか」
文若は僅かに目を逸らした。それを確かに見て取ったらしい孟徳が唇の端を曲げる。それが癇に障って睨もうとした途端、孟徳は駆けるように歩き出した。
回廊の向こうを、両手いっぱいに何かをかかえた花が幸せそうな顔で歩いている。あれを見付けたか、油断も隙もない。駆け寄った孟徳に頭を下げた花は笑顔で何か話しはじめた。いっこうに近づいてこない。
駆け寄るべきか、しかし、花の傍らでまた不毛なやりとりをすることになるかと思うと気が滅入る。
そのとき花がふと首を巡らした。ひたすらに見つめていた文若の視線をつかまえ、笑う。
ふ、と空気が軽くなった。
慌てて身を返す。執務室でひとり赤面しているのもおかしいが、花がこちらに戻るまでの短いあいだに平静に戻らなければならぬからだと思うことにした。
(終。)
(2012.8.7)
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