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花が気配に目を覚ますと、文若が部屋に入ってきたところだった。夫は、椅子に腰掛けている花を見て、眉間に皺を寄せた。
「おかえりなさい」
花が立ち上がると、膝掛けが滑り落ちる。それを拾い上げようとした時、文若が花の肩を掴んで椅子に座らせた。彼にしてはやや強引な仕草だった。
「子のある身でうたたねなどするものではない」
「ごめんなさい」
肩を竦めると、文若は短く息をついた。花の膝に、小さな包みを乗せる。
「丞相からだ。」
花は微妙な表情を浮かべた。彼女の懐妊を孟徳に告げた時の騒ぎと言ったらなかった。孟徳からは男子と女子の衣が山ほど送り届けられ、子建は赤子用の遊び道具や寝台を本人が持ってきた。
「正確には丞相の夫人から、子のいる女性に良い薬草だそうだ。素性は確かだ、安心していい」
「はい。お礼を書きます」
「ああ。それと、丞相と公子には厳重に注意しておいた。」
花はほっとした。
「ありがとうございます。なんだかもう、どうしていいか分からなくて」
「当然だ、臣下には分が過ぎている。…あの方はまったく」
花が着替えを手伝う間にも文若の小言は続いた。寛いだ衣に直った文若はやっと小言を止め、花の向かいの椅子に腰を掛けた。長々と息を吐き、改めて花を見て目元を緩ませた。
「今日は具合はどうだ」
「だいぶいいです。文若さんが孟徳さんや子建さんに言ってくれたから。プレッシャー…えっと、心が重い感じは減りました。」
文若は重々しく頷いた。
「それは良かった。夕餉は取れそうか」
「はい!」
花は喜んで頷いたが、ふと首を傾げた。
「このところずっと夕ご飯を一緒に取ってくれますね。ずいぶん無理をしているんじゃないですか?」
夫がゆるく首を振り、珍しく人が悪そうに微笑した。
「妻の具合が良くない、と言えば丞相は否と言えぬ」
「文若さんてば」
思わず笑うと、彼は苦笑を浮かべた。立ち上がり、花の足下にひざまずく。慌てて立とうとした花を制し、花の腰に手を回して膝に頭を置いた。あまりにも珍しい夫の姿に花が固まっていると、文若の息が花の膝をくすぐった。
「…わたしが、いちばん落ち着かぬのかも知れぬ」
花はおそるおそる文若の頭に手を置いた。いつも自信に満ちて先を行く彼がまるで「子」のようだ。
「落ち着かないですか」
「わたしが代われればここまで不安にはならぬのだろうが」
「…それは…えーと、ちょっと無理かな…」
「そうだな。」
また、文若が長く息を吐いた。
「丞相が戦場に出ている時は後方で兵站をすればよい。お前が戦っている時はなにをすれば良い?」
「戦う、だなんて。文若さんは、文若さんでいてくれればいいんです」
「わたしで、か」
「はい。…わたしは、朝は行ってらっしゃいってお見送りして、それから書き取りや詩の稽古をして、お昼になります。お昼を食べたあとはすごく眠くなる日もあるので、そういう時はすぐ寝ます。あとは、子建さんのくれた薬湯を飲んだり、庭のお花を見たり…赤ちゃんの衣を縫ったり、してます。」
言っているうちに、花は自然と微笑みを浮かべていた。
夫を昔から知る老家令に昔の話を聞いたり、彼と植えた花が順調に伸びているのを見たり。子がいる、という事実はどうしても自分を不安定にするけれど、彼の姿を思う間はとても落ち着く。
「文若さんがちゃんと帰ってきて笑ってくれるのが、いちばん嬉しい。」
そうか、とため息のような声が聞こえた。
「さわっても、いいか?」
「え? あ、はい」
文若の手のひらが、おそるおそる花の腹に触れた。肌も気持ちもくすぐったい。
「不思議なものだ」
「わたしもちょっと不思議です。」
「動く、とよく言うようだが」
「それはもうちょっと先じゃないでしょうか。」
「…世の中は知らぬことが多い」
子どもっぽい慨嘆に、花はくすりと笑った。文若は花の腹に頬を寄せるようにして目を閉じた。
「わたしはお前に石の指輪を贈った。お前はあんなものより素晴らしいものを贈ってくれる。お前はやはり、最高の妻だ。」
思いがけない言葉に、花の心が熱くなる。彼は時折、こうして飛び上がるほど照れくさい言葉をくれる。嬉しいけれど、と花は目を細め、文若の肩に手を滑らせた。彼が自分を落ち着けようとする時のやり方だ。
「みんなみんな、文若さんが文若さんになってくれたから、です。」
どちらか一人だけはできなかった。文若も自分を見てくれたからこそだ。
彼は笑ったようだった。しかし、ゆるりと立ち上がった時には、謹厳な表情になっていた。
「夕餉に行こう」
耳のあたりが紅い彼に微笑みかけると、文若はちらと目を合わせて照れくさそうに口元を緩ませた。
(2010.11.26)
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