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(七)です。
おつきあいいただき、本当にありがとうございました。
白い夜着を着、寝台に腰掛けた花が、部屋に入ってきた文若を振り向いて笑みを浮かべた。まろやかな頬に橙色の灯りがすべって艶やかに光る。この瞬間だけは、婚儀から何ヶ月経っても落ち着かない。
文若は寝台に上がると、傍らの灯を消そうとする花の手を制した。正面に向き合う。
「お前に渡したいものがある」
彼につられたのか、畏まった表情になった花が、怪訝そうに首を傾げた。
「もう指輪は頂きましたよ?」
「そうではない。」
文若は、夕食のあと褥の下に隠しておいたものを取り出した。いまの自分の表情が普段通りだといいと思いながら、花に渡す。
花が息を止めた。
「これ、本…」
文若は咳払いした。
「むろん、『あの』本ではない。」
孟徳が気まぐれに花に与える紙とよく似た、手触りのいいものだ。これより粗い、太い筆さえも引っかかるような雑なものは多く出回っているが、これだけ上質なものはなかなかないだろう。表紙も、文若が注文した通り、濃い青に蓮文様が金糸刺繍された華やかな布で飾られている。全体の厚みこそ「あの」本より若干薄かったが、それは確かに本だった。ただ、何も書かれていない。
花の指が震え、その金糸を辿る。
「そうです、よね…でも、どうして」
俯いたままの花に、文若はつかえながら言った。
「お前の言葉を、書くといい」
「え?」
「お前はわたしといると、この国の言葉ばかり、政務にかかわることばかり書くことになるだろう?」
妻が顔を上げる。戸惑ったような表情に、文若はその手を握った。
「わたしはお前から、元の世界を奪った」
「そんな言い方…!」
花の顔がさっと青ざめるのを、手に力を込め「事実だ」と黙らせる。
「だが、お前が丞相に話していたような他愛ない話や、お前が詩にしようと苦戦しているあどけない想いまで奪いたくない。お前があちらで大切にしていた…そう、今日の帰りに話したな、ゆうえんちと言うのだったか、そういう楽しかった出来事まで忘れて欲しくない。それは、お前を作ってきたものなのだろう? わたしはそれを聞くことしかできない。わたしにとってはそれも宝だが、お前にとってはうまく伝わらずにもどかしいこともあろう。だから、お前の言葉で、お前の書きたいものを書くといい。」
文若は大きく息を吸った。
「最初は、お前が紙に触れるのも嫌だった」
妻の肩が、眼差しが揺れる。
「お前が嬉しそうに帰路を語る夢を見たりもした。まったく関係のない本でさえ、触れるのも恐ろしく感じたこともある。…だが、思い直した。」
言いながら、会った頃の花を思い出す。見たこともない服、髪型、ひとへの眼差し、まっすぐな言葉。理解しがたかったそれが、いまはこれほど近くに在り、それなしでは居られない。
「…いつか何もかも変わる。ここへ来たばかりのお前を思い出しても、それは分かる。だがそうであっても、わたしたちは幻ではない。既に書かれたあの本でなく、これからのお前が書いていくものなら、わたしは恐れることはない。そこには、お前も、わたしも元譲どのも丞相も、玄徳さえ居るだろう。ゆうえんち、にさえ、わたしは行けるかも知れぬ。」
我知らず苦笑すると、彼女の唇がわなないた。本が落ち、きつく抱きしめられる。自分の名を耳元で繰り返すばかりの花に、そっと笑う。
「きっとわたし、文若さんがああしたこうした、ってばかり書きます」
「そうか」
「今日はこれを注意されたとか、あれを褒められたとか」
「ああ」
「冷たいお粥が実は好きじゃないとか」
「…強いて食べたいと思わないだけだ」
花はそのまま、力が抜けたように文若の胸に顔を埋めた。その背に、彼は呟いた。
「使ってくれるか。」
「勿論です!」
勢いよく顔を上げた花の目尻が紅くなっている。
「文若さんって、本当にわたしには過ぎた旦那さんです」
「…その評価は少し早いだろう。婚儀を挙げてから一年にもならぬ」
咳払いをすると、身を引いた花が怒った顔をした。
「そんなはずないです。だって文若さんだもん」
もう落ち着いて向き合っていられなくなり、彼はしっかりと妻を抱きしめた。
※ ※ ※
わたしは、違う場所から来た。
このひとも、誰も彼も居ない、栄華を誇るこの街さえ変わってしまった世界から。
…どちらかが、先に逝く日が来て。
それでも、生きていかなきゃいけない日が来て。
そんなことを考えただけで泣きそうになるけれど、このひとが護った世だから、わたしはひとりでも胸を張って生きていくと思う。
文若さんが信じていてくれるから。
ありがとう、大好きです。
(2010.6.25)
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