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よい日よりだ、と文若は思った。風はすこし寒いが、簡と墨の匂いしかない執務室よりはずっとましだ。散り際によりいっそう強い花の香がどこからかする。庭の下草は柔らかく、ほのかに暖かい。日差しは凝った肩や背に柔らかに降り注いでいる。これで花がともにいればいうことはないのだがと彼は小さくため息をついた。花は三人目の子を産んだばかりで、上のふたりに似ず虚弱な赤子は彼女や乳母たちに心配ばかりかけている。彼女のほうが看病疲れでいまは眠っていた。花が子をみごもるたび、子を産むたびに気が休まらない。
「ちちうえ!」
甲高い声は彼は瞬きした。幼い娘が唇を尖らせてこちらを見ている。
「あ、ああ」
「ああ、じゃありません」
口調だけは母親そっくりに娘が言った。
花が赤子にかかりきりで子らは寂しさをもてあまし、上の息子はともかく下の娘はかんしゃくを起こすことが多く侍女たちを困らせている、と花から聞いていた。昨日、例外に早く帰宅した文若は、娘が泣きわめいて夕餉の汁椀を投げたところに行きあい、夕餉を取り上げたうえに暗い物置に閉じ込めた。娘はだいぶ泣いて、息子が何度か見に行きたそうにしたが決して助けぬよう厳命した。むろん、ころ合いを見計らって侍女が連れ出している。
そのようななりゆきの所為か、それとももうすっかり忘れたのか、娘は朝から文若にまとわりついて離そうとしない。息子は学問の師が来たので部屋を去ったが、娘は『おままごと』とかいう遊びをともに行おうといって彼を庭へ連れ出した。
だが、その遊びが、文若はどうも居心地が悪い。なんのことはない、文若を夫に、娘を妻に見立てて遊んでいるだけだ。そういう遊びはむろん、見たことがある。
この遊びをいつもしているのかと言えば、いつもはおみせやさんなの、という。たいがい相手をしているという息子がため息をついていうことには、木の葉で花を売ったり草で作った舟で隠しておいた菓子を買ったりという、あきないの真似をするのだという。一般的な貴族の感覚では商人の真似などととんでもないと思うところだが、文若はそう断じることはない。兵糧は宙から湧いて出ることはない。
娘はにこりと笑った。ちょこんと頭を下げる。
「おしごと、おつかれさまでした」
ごくおさない娘が母の口真似をして微笑う。
「…うむ」
「じょうしょうさまはおとなしくしていましたか?」
「…そう、だな」
「じゃあごはんにしましょう」
娘はござの上に空のうつわを置いた。生地そのままの碗で、外側にはひっかいたような線が稚拙な草花を描いている。見込みが黒ずんだ緑色に汚れているのは草をすりつぶしでもしたのだろう。
「きょうはあなたのすきなものをつくりました」
娘は楽しんでいる。遊びだからだ。そうだ、遊びだ。
「…そ、そうか」
「きにいってもらえるといいんですけど。さあ、どうぞ」
文若はぎこちなくうつわを取り上げた。飲むふりをする。黙ってござに戻せば、娘は悲しそうな顔をした。
「おいしくないですか?」
「いや」
「じゃあ、おいしい?」
ああ、真実、妻が相手であったなら。
彼女は自分が食べるときの様子をよく見ているからそれが上の空か真実なのか分かる。押して尋ねることなどない。彼は久しぶりに、ずいぶん昔に言い寄ってきた女たちを思い出し、いまさらに不機嫌になりかけた。
「まこと、令君らしい」
突然響いた呆れ声に文若は背を伸ばした。横合いから手が伸びてからっぽの碗を掴む。それをぐいと飲むふりをした子建が娘の前に座った。
「おいしいですよ」
「うれしい!」
娘がきらきらと笑った。文若は歯をぎり、と噛んだ。
「なにゆえこのような場所にいらっしゃるのですか」
「散策の途中です。花殿はどちらに?」
「ははうえはおやすみです。じゃまをするとちちうえにおこられます」
元気よく言った娘を、子建はひょいと抱き上げた。
「じゃあわたしと遊びましょうか」
「はい!」
ほそい、まだ何も掴んでいない手が迷うことなく子建を抱きしめる。
「お待ちください」
「ふふ、父上に言わせれば、令君のように遊び下手だと女子にもてない、というところなのでしょうね」
肩越しに振りかえった子建が笑っている。その顔に孟徳がだぶった。文若は自分だけ、とても遠いところに放り出された気がした。思わず動きが止まる。娘がはしゃいだ笑顔で孟徳の肩を何度も叩いた。
「おいかけっこ、おいかけっこ!」
「父上には及びませんが、逃げるのには自信がありますよ?」
子建が軽やかに笑って走り出す。彼は我に返った。
――まだ見たこともない未来の婿が、娘をさらって行くような。
「…いまさら、結構です!」
文若は靴を脱ぎ捨て、娘を取り返すべく走り出した。
※※※
花が娘の掛け布をそっと直すのを見守る。幼い寝顔が何か言うように唇を動かしたが、寝息は健やかなままだった。それを見届け、足音を忍ばせて部屋を出た。廊下に出ると急に冷えたのか、花が肩にかけていた上衣に袖を通した。
「よく寝ていました」
囁きに、文若は小さく息を吐く。花が彼の腕に手を掛け、文若はゆっくり歩き出した。
昼間あれだけ暖かかったが、日が落ちるととたんに気温が下がった。月も細い夜半はいっそう寒く感じられる。廊下はしんとして、時折、通りを歩くひとの咳が遠く聞こえる。
文若は目を細めた。花の髪が肩口で揺れている。
「昼間、あれだけ走り回ったからな」
子建もまじえた追いかけっこに発展した経緯は、夕餉の時に花にも話してある。興奮した娘は支離滅裂ながらその楽しさを母に訴え、花は笑顔でそれを聞いていた。
「お昼寝もしたようですけど」
「その後も、だ。あれはほんとうに喜怒哀楽が激しい。」
ため息をつきながらの言葉に、花が小さく笑う。ふだん家にいない自分が嬉しいのだろう、彼が休みの日はたいがい騒動になる。
「上の子のときはおとなしくて心配だと言ってましたね」
「そうだったか? 末の娘はどうなるか」
生まれたばかりの赤子は娘だった。豪勢な祝いが孟徳や子建から届けられ、上の娘が生まれた時のことを思い出した。
「孟徳さんったら、まだ、うちの子を奥さんにしたいて言ってませんか?」
花が笑いながら言って、彼は目を細めた。
花宛ての祝いにはそんなことはちらとも書いていなかったけれど、確かに文若にはそう言っている。眉間が面白いように深くなるのが己でも分かったがすぐ、それを解く。
「ああ言うことで、健やかに育つよう祈念くださっているのだ。…と思うことにした」
花が瞬きした。
「…まあ」
「仕方なかろう。聞きあきたのは確かだが、今度の子は、ずいぶん気苦労をかけさせるからな。」
花がふいと身をすくめるようにして俯いた。今度の赤子は弱い。ただ、乳母も侍女も、このような大家にお生まれなのですからきちんと育ちますよと言ってくれているという。花に言い聞かすつもりでも、その言葉はとてもありがたい。医者も薬もきっと惜しみなく与えようと、何度目になるか分からぬ決意を新たにする。でなければ、このような身分である甲斐もない。
文若は俯いたままの花の手に手を重ねた。花が立ち止って顔を上げると、その顔を覗き込む。
「大丈夫だ。丞相がこうと思って叶えぬことはないのだからな。」
重々しく言うと、花が白い顔をほころばせた。
「文若さんったら、こんなときだけ」
「別にあの方は気になさるまいよ。それとも、公子のほうが良いか?」
さらに鹿爪らしく言葉を重ねれば、むすめのように華やいだ笑みが返る。
「じゃあ、大丈夫ですね」
「無論だ。」
大げさなくらいしっかりと頷いてみせると、花の目じりがつと、潤んだようだった。それを見つめれば彼女が泣いてしまいそうで視線をそらす。
「ずいぶん暗いと思えば、月が細いのだな」
「はい」
文若はしばらく黙って夜空を見ていた。細い月だが、そんなことに不安は覚えない。それを見たまま、花の肩を抱いて引き寄せる。
「お前こそ、よく体を養うのだぞ。」
少しして、はい、と、ため息のような返事が胸にとんと当たる。
子をなすことは己にも責のあることだ。それでも、花がまず健やかでいなければ我らは誰ひとり穏やかではいられない。ただ、それをあからさまに言葉にはできない。口にしたとたん、言葉以上の重さで花を沈めてしまいそうな気がした。
遠い梢が鳴って、裾を夜風が乱してすぎる。いっそう細くなったような妻が身を震わせた。
「寝所に戻ろう」
静かに言えば、花が小さく頷いた。どこか頼りなく歩き出すその足元をかばいながら、文若は花の肩を抱く手に力を込めた。
(2012.10.4)
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