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花は目をこすりながら回廊に出た。眠かったわけではない、むしろその逆だ。夜にふと起きたらなかなか寝付けなくなってしまった。
月はごく細く回廊は暗かった。遠くで話し声がするように思うのは警護の者だろう。夜明けはそんなに遠くないようだ。
回廊の手すりぎわに置かれた長椅子に腰かけ、花は黒々とした庭を見下ろした。玄徳の好きな香りを零す青葉も、野良猫がたまに日向ぼっこしている岩も闇に沈んでどこか分からない。
夫はいつ、帰るだろう。
勿論、訓練のおよその日程は知らされている。しかし、いくさが天候をも相手にする以上、訓練とてそう予定通りにはならない。花がこちらで過ごした長くない日々でも、それは分かっている。
この城下でいま何百、もしかしたら何千という人が同じことを思っている。家族はいつ、帰るだろうかと。胸が痛んだ。それを指揮する立場の夫をもつ身でこんなことを考えるのは欺瞞かと思うが、花にとってあのひとはまず、大事な家族だ。誰だって、いくさなんか無いほうがいいと思っている…そう思いかけた時、ふと、とある夫人の顔が浮かんだ。
夫の部下で地位ある武将の第三夫人となったひとは花とあまり年齢も変わらなかった。若い女性がたいそう好きだというその武将は、結婚前の自分に興味を示したこともあったので、花が苦手にしていたひとだ。むろん、玄徳には言ったことがない。考えるだに恐ろしい。
花の立場では、そういう女たちの挨拶を受けるときもある。本当は花が率先して身分ある夫人たちの間を取り持つものらしいが、玄徳もそれを望んだことがないので、彼の気持ちに甘えている。面倒ごとばかりだと口の端を曲げるようにして夫が笑うので、自然の感情としてなるべくそういうことからは遠ざかっていたいと思う。
その、あどけなさの残る第三夫人は、きらきらした目で花を見つめて根掘り葉掘り、暮らしぶりを知りたがった。そうして無邪気に、自らの夫の出世を願った。そうすればこんな暮らしに近づきますのねとうっとり笑っていた。立場をわきまえた化粧と、魅力を引き立てる衣に飾りは、花の目にはじゅうぶん美しく立派に見えたのだけれど、あとから侍女に聞けば、彼女は、家柄はそう高くないが深窓というにふさわしい育てられ方をしたそうで、あの雰囲気はその所為かとも思う。そのきれいな赤い唇が、武人は国のために死ぬものです、覚悟はできておりますわと言った。その言葉がどういう流れで口にされたのか記憶が少しあやふやなのは、あんまり彼女が朗らかだったからかもしれない。
そう思うのが武人の妻のたしなみだと、他の武将に言われたこともある。けれど自分には一生無理だ。花は膝の上の手を握りしめた。わたしは大事なものばかりなのに。
あの夫人はあの朗らかさのまま生きていくのかもしれない。もちろん、大事なことは人それぞれだし、己の考えが少数だと戒めることも忘れない。でも、あのひとが、いくさから帰る夫を迎えるときの表情を見てみたいとも思う。ただあの夫人の夫はきっと、何も零したもののないあのひとの手のひらが心地よいのだろう。
花は暗がりに自分の手をかざしてみた。夜目にもうすぼんやりとしか見えないあきれるほど小さい手を、夫はどう思っているだろう。あの夫人とどこが違うのだと問われれば口をつぐむしかない、あやふやな手のひら。
潜めた足音に、花は我に返った。衣擦れの音がして、花様、とそっと呼びかけられる。近い侍女たちは花の知らない姉たちのように気を使ってくれる。花は振り返って、淡い微笑を浮かべる白い古風なおもざしに笑いかけた。
「もう夜明けが近うございますよ」
ひっそりという彼女のまなざしにつられて空を見る。まだ光のかけらしかない空に、強いものをさがしてみる。
「今日は晴れるでしょうか」
侍女はほほ笑みのまま、ただ首をかしげた。
「お戻りの日が晴れていると良うございますね」
あのひとのような日差しがいちめんに広がる空。大好き、と叫びたくなる空。
「…ほんとうに、そうだといいです」
それだけが、確かに欲しいと思えた。
(終。)
(2012.8.9)
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