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申し上げるまでもなく、作中の出来事はfantasyです。
ナンバーはついていますが、続き物ではありません。
芙蓉が燭を持って入ると、姫が筆を置いたところだった。彼女は芙蓉に気づき、微笑んだ。
「もうそんな時間」
部屋のそこここにわだかまっていた闇が灯にやんわりと退いて、文机に置かれていた椿の赤い花びらが色を深めた。芙蓉は机の前に燭を置いた。
「少しお休みなさいませ。いくらお輿入れの前とはいえ、お体をこわしては元も子もありません」
姫は恥じたように笑って、手習いを隠した。その手本は水のようにきれいな、姫の許嫁が書いたものだ。
「あの方のようにきれいな字を書きたいの」
「あのお方は姫の字が素直でお好きだと、他ならぬ姫が打ち明けてくださいましたものを」
「気負っているのよ、恥ずかしい」
芙蓉は肩をそびやかした。
「わたしには分かりませんけどね」
「芙蓉ったら、また」
姫が少し哀しそうにする。芙蓉はそれを見ない振りで板戸を閉めた。
公家の血を引くその男が、姫を妻にと言ってきたのは前の夏。それからあれよあれよという間に話は進み、梅が咲いたら姫は、天険を二つも越えた先に行く。芙蓉の母が姫の乳母であった関係でずっと側に仕えてきたが、それも終わりだ。
本当は芙蓉もついて行きたい。けれど母の具合がひどく悪いのだ。昔から小心で、この土地特有の重いような海鳴りにも愚痴を言う母が芙蓉は大嫌いだったが、それでも置いていくわけにはいかない。姫の乳母子がそのような情無しと知れたら、姫が先方でどんなことを言われるか分からない。
隠れて住まねばならぬくせに、と芙蓉は姫の許嫁を思い出した。この土地の者とまるで違う整った顔立ち、美しい挙措、囁くような話し方。都ではずいぶん非道なことをした一族の裔と聞くが、そんな血の匂いは彼からはまるでしない。もう何代も前のことと古老は訳知りの許した口をきき、若者たちは血筋というものに目を眩ませている。
「芙蓉」
物静かな声に、芙蓉ははっとした。姫は灯りに眼差しを揺らしてこちらを見ていた。
「芙蓉は怒ってばかり」
詠うように姫が言った。
「父様がわたしのいたずらに怒って打ちすえた時も、母様が亡くなった流行病の時も、叔父上が海で溺れた時も、あの方が足を痛めてこの館に逗留した時も。わたしのかわりにずっと、怒ってばかりいたわ」
姫はただ寛いで、優しいことばかり思い出しているようだった。
「だからわたし、悲しむことと喜ぶことしかしていなかった。こんな場所でずいぶんおっとりに育ったものだってみんな笑うけれど、芙蓉のおかげよ。」
芙蓉は、ふっと肩の力を抜いた。
「嘘ばかりおっしゃいます」
「え?」
大きな、薄茶の目が瞬きして芙蓉を見た。遠い昔、異国の民がこのあたりに暮らしていたという逸話を思い出させる、透き通った瞳だ。
「山道慣れしていないからと足をくじいたあのお方を不甲斐ないとわたしが怒った時に、姫はわたしに怒りましたわ。あの方はその血筋のゆえにあまり出歩くことができないのだから当然だと。それを悪く言ってはいけないとお怒りでしたわ」
姫の顔が瞬時に赤くなった。
「そ、そうだったかしら」
「ええ。あのときから姫は、あのお方のこととなると」
「もう止して」
茹で上がったような顔で姫が両手をやみくもに振った。ややあって大きく息をついた姫は、閉めた板戸の向こうを透かすような目をした。
「あの方も、芙蓉のことを褒めていたのよ?」
芙蓉はすぐに返事ができなかった。姫はやわらかく言った。
「あなたは本当に親身に大事にされていますね、あの芙蓉という娘のような者がわたしにもいれば良かったのにって。ずいぶんあなたを買っているのよ」
「…あのお方こそ、傅く者が代々居るでしょうに」
このあたりでは一番開けた谷に大きな屋敷を建て、漁船ばかりのこの土地で唯一、都よりまだ遠い場所の産物を運ぶ大きな船を持ち、昔からの王のように暮らす男。
「また怒る」
姫はころころ笑った。芙蓉はそっと胸を押さえた。
あの、男。
…誰そ彼時に浮き上がった白い顔は、勝ち誇っていた。そのさまがあまりに美しかったから、彼は魔か神のどちらかだと芙蓉は決めたのだ。ひとではない。
(わたしが惹かれたのは、あなたのような眼差しが守り抜いた姫だからこそ)
その薄い唇は涼しげに告げた。
あの男を、姫が愛してさえいなければ。そういう女を愛する男の空虚を、どうしてか分かってしまった自分が嫌だ。
「芙蓉も、あの方の琵琶をいちどでも聞けば分かるのに」
芙蓉は唇の片方をつり上げた。
「お屋形に参ることはできませんから、姫が教わって、お里帰りの時にこの芙蓉に聞かせてくださいまし」
「難題ね」
姫は文箱の蓋をぱちりと閉めた。「あの方」の紋が、灯りに羽ばたくように見えた。
(2012.2.1)
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