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文若さんと花ちゃん、婚儀後です。「夢野の鹿も」と対になります。
文若は後ろ手に扉を閉め、部屋を見回した。この部屋にも三日目となればそれなりに己の色は付くものだ。最初の日のような、他人の部屋のような感触はない。この城に滞在しているあいだは己の部屋となるのだからと、すでに飾られていた派手な、趣味に合わぬ調度を退けさせたせいもある。おかげで、この城の人間たちには噂通りの堅物と浸透したようで、ずいぶんと仕事が進めやすくなった。頼みもしないのに、兵糧の横流しをしている将やら、不当な利益を上げている商人たちが密告されてくる。それで手加減するつもりは毛頭ないが、これで仕事が早く進んで、妻のもとへ帰る日が一日でも早くなれば構わない。
古色蒼然とした火鉢に熾った炭が、部屋を暖めている。彼は部屋を突っ切り、火鉢の前に座った。手をかざすと、じわりとぬくもりがうつる。思わず深い息が出た。寒がる妻には常々、慣れていないからだとか、しっかり着込みなさいとか注意しているが、誰だって寒いのは苦手だ。こうして火の側にあるのが嬉しい。ひとりの旅空では、妻を抱き寄せて温もりを楽しむわけにもいかない。
文若は懐から簡を取り出した。普段、目にする簡よりも堅く結わえてあるそれは、妻から届いたものだ。先日、彼女宛に文を出したから、それの返礼なのだろう。不器用な結び目の固さに、彼女が試行錯誤してこれを結んでいるさまが目に浮かび、彼は微笑んだ。どうも、手では解けそうにない。少し惜しかったが、小刀を取り出して紐を切った。簡はためらうように開いた。
新品のきれいな簡だ。丁寧な、というより堅い書きぶりは、さしずめ、いちど練習してから推敲し、書き写したのだろう。
文若の文への礼で、文は始まっていた。気候や食事の変化について、ひとしきり文若の身を案じる言葉が並ぶ。それなりにいくさ場を踏んでいる夫への言葉とも思えぬが、彼女にはずいぶん案じられるのだろう。無理もない、というか、あのおかしな「旅」で、頭のおかしい兄とまで言われるような状態だったのだから、とっさのことに対処できぬ夫と思われたのかもしれぬ。彼はいちど唇をねじ曲げ、続きを読んだ。
庭の紅い花がすぐに散ってしまって残念だとある。文若が知り合いの庭から譲ってもらったそれを、妻は、似た花が故郷にあったととても控えめに喜んだ。本当は泣きたかったのではないかと思っている。だからともに眺めたいという願いを叶えたいと思っていたが、先延ばしになってしまった。
文若の頼んでいた書が届いた、ともある。妻の手習い用にと思った書だが、そのことは言わぬまま来てしまった。あれを送ったら、また微妙な笑顔になるのだろうか。彼女は学ぶことは嫌いではないが、自分が注意したり添削したりすることに必要以上に萎縮する時もあるようだ。そのあたりの案配は、相変わらず悩みどころだった。
帰る日をきちんと知らせて下さいと最後にあった。気をつけて帰ってきてください、新年の準備は一緒にしましょうと結んでいた。文若はその字に指を置いた。本人は気づいていなかったかもしれないが、ここだけ筆致がとても丁寧だ。
妻の声が聞こえる。気をつけて行ってきてくださいねと、出立前、折に触れ懇願された言葉だ。柔らかい肌をなぞる間、今生の別れのように泣きじゃくった表情は文若の奥を不思議にくすぐる。
文若は簡を巻いた。それを懐に納める。文は、帰る間際に書くのが最も効率的だ。帰路と帰着日、それで済む。まあ、それだけ書いてやったら、きっと妻は素っ気ないと膨れることだろう。
だが、それで済ませておこう。残りは帰ってからだ。こちらで手に入れた甘い木の実、持って帰ることができない鮮やかな色の花、茶をいれるのが上手な侍女(ああこれは怒られるだろうか?)、不思議だが耳に心地よい抑揚の方言、妻ならば似合うと思った衣の色目…いつも通り、仕事以外のすべてを妻に取っておこう。
彼は椅子をひいて立ち上がった。花の用意した衣に着替え、寝具に横たわる。さて、どれを最初に話せば喜ぶか。いつになく根掘り葉掘りねだるだろう妻を思い、文若は苦笑して目を閉じた。
(2013.12.26)
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