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「お帰りなさい」
笑顔で寄り添ってきた花の体を、玄徳は強めに抱きしめた。くす、と笑って花が身をもたせかけてくる。めおとになったばかりの頃は、いちいち紅くなって玄徳の胸を押し返したりしたものだが、子もできたいまはとても自然に側に寄り添ってくれる。それが嬉しく、また少し惜しい。まったく、どこまでも欲深い。
そこまで思い、玄徳は妻を見下ろした。
「あの子はどうした」
花は、途端に可笑しそうな顔をする。
「こんな遅くまで起きていませんよ。このあいだ夜更かしを怒ったのは玄徳さんです」
ああ、と彼は瞬きした。そうだ、今日も孔明との軍議がとても長引いたのだ。
「お前も、寝ているかと思った」
軽く結っただけの花の髪を撫でると、ふふ、と彼女は微笑んだ。
「玄徳さんを待っていたかったので。でも、ただぼうっとしてると灯脂を無駄遣いしてるのーって師匠にも言われたことですし、あれをしていました」
花が指さす方には組紐台があった。玄徳の妻や孔明の弟子、そして母、と彼女にはすることがたくさんある。だから、そこに掛けられた組紐は遅々として進まない。それでも玄徳が手伝うとするととても怒るので、放っておく。本当は、手を出した時に膨れる彼女が可愛いだけだ。
彼女からはたくさんのものを貰った。刺繍の部分が不格好にふくれた手巾や、織り目の揃わない下着、きつく編み込みすぎて硬くなった組紐、等々。それらは、彼女が、そういったことが上達するにつれ玄徳の日常からは遠ざかった。構わず使い続けていると花が泣きそうな顔で恥ずかしいですと言ったからだ。彼女が呉れた気持ちごと持ち歩いていたかった彼には不満ばかりだったが、捨てられるのを回避したので良しとしている。
玄徳の衣を、花が緩やかに着替えさせていく。体が軽くなる思いがする。昼の残滓が花の手でぬぐい取られていく。
「今日はあの子はどうしていた?」
「師匠に誂えて貰ったお手本を神妙に写していましたよ。」
「そうか。俺と違って勉強熱心だ。気後れしてしまうな」
軽く言うと、花は物思わしげな顔をして玄徳を見上げた。
「どうした」
花は玄徳の前にまわり、夜着の襟をしゅっと撫でた。その唇が噛みしめられている。
「なんだか、ずいぶん言われたようです」
「ん?」
「玄徳さんの子どもだということを、誰かにずいぶん諭された…というか、崇められたようなんです。わたしがちょっと怯むくらい、気を張った顔をしていて。小さい子なのに」
玄徳は花を促して燭台の横の長椅子に座った。花が書き物をしたり、息子が幼い頃は乳をやったりしていた椅子だ。ゆったりと広く、ふたりで並んで腰掛けてもゆとりがある。
玄徳は花の手を両手で包み込んだ。
「花までそんな顔をしてはいかん」
「…はい」
「あの子は確かにわたしの子だ。でも、花の子でもある。」
見上げてきた妻は、出会った頃のような幼い表情をしていた。途方にくれたような眼差しはそれでも玄徳をまっすぐ見つめていた。その頬に手を滑らすと、ふにゃん、と花の表情が緩んだ。
…そういう表情を、忘れないようにして欲しい。
自分だって、己の血筋を聞かされるたびに反発した。しかしいま、ここに在るのはそれを使ったからだ。そう、自嘲することもある。
だから、余計に願う。己の子は花を恨まないでくれと、自分の我が儘で親元どころかすべてから引き剥がした娘に追い打ちをかけるようなことはしないで欲しいと。彼女を妻にする時もしたあとも、長男が生まれた今でさえ、ひそひそと花の足もとを掬おうとする話が湧いては消える。そういう時だけ聡い妻は、玄徳が散らした妄言の欠片をどこかで掬っているだろう。
「…そういえば」
玄徳が思いついて言うと、花が小首を傾げた。
「あの子に、お前が作った組紐をやったんじゃなかったか? あれはどうした」
この間から注意して見ているが、朝に挨拶に来る息子の衣のどこにもあれは使われていなかった。それが、妄言の欠片が息子に貼り付いた所為でなければいいと思ってその顔をのぞき込むと、花は瞬きして瞬時に笑み崩れた。どこか、決まり悪そうでもあった。
「どうした?」
花は、ぱたぱたと袖を小さく振った。
「ぜんぜん使ってくれなかったんです。新しい紐を買って欲しいって侍女さんに頼んでいると聞いてすごく落ち込んだんですけど。わたしが作った物は、『宝箱』にしまってあるそうです。決して汚すわけにはいかないからって言っていた、と。わたし、嬉しくて」
花は胸の前で手を握り合わせて、はっとしたようにそれを解いた。
「同じことだなあと思いました。わたしが玄徳さんに初めて貰った髪飾りをなかなか付けられなかった時みたい。あのときも、玄徳さんはずいぶん気にしてくれた」
長い髪の先を指先に繰り返し絡めるその指を取ると、花はまた瞬きして、えへへ、と笑った。
異邦の象徴であるような、白くて滑らかで柔らかだった手はすっかり荒れてしまった。この手が、自分を選んだ。
「また編めばいい」
「そうですね」
玄徳の手を握り返して妻は笑い、立ち上がった。
「なんだか深刻な話にしちゃってごめんなさい」
もしかしたら、周りの者たちの影響があって、息子は花を「母」よりも「玄徳の妻」として見ているのかもしれず、それがゆえに宝箱に入れたのかもしれない。しかし、玄徳はそれを口にすることはしなかった。
横になろうと花に笑いかけると、彼女はほっとしたように頷いた。
(2011.11.1)
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